厚い壁、背中おす海外で社債発行

派遣した部下が社長に就き、再建を目指す。でも、流用されたカネを取り戻すのは、容易ではない。一方で、新たに車を買う資金が必要だ。200人いた社員の給与も払わねばならない。運転資金を借りようとしたら、現地の銀行に「親会社の保証をとってこい」と要求される。

すぐに、東京へ飛んできた。担当役員から保証の了解を得た後、社長室へ現れた。だが、話を聞いて「保証はできない」と言い渡す。「それでは、つぶれます」と食い下がられたが、厳しい言葉を続けた。どこの拠点でも、資金回収が遅れると、派遣した若い責任者が悲鳴を上げる。でも、めったには助けない。豪州は経営難になって全株式を買い取った子会社だから、最後は本社が何とかする。でも、「何とかしてやる」と言った途端に、おしまいだ。つまずいたときは、自分で立ち上がらせるのが宮内流。それをやらせないと、人は育たない。そう確信する。

「於不可已而已者、無所不已」(已むべからざるに於いて已むる者は、已まざる所なし)――道理から言ってやめてはいけないことでさえやめてしまうような人間は、しょせん、どんなに必要なことでも、中途でやめて終わる。中国の『孟子』にある言葉だ。人生に何度とは訪れない正念場で踏ん張れなければ、いつも挫折を繰り返すようになる。だから、踏ん張るべきときは踏ん張れ、と説く。宮内流は、この教えに重なる。

豪州から来た部下は、しょげて出ていった。やはり「もう、つぶすしかない」と思ったのだろう。出張のために羽田空港へ行ったところで、彼に電話を入れた。「ちょっと言い過ぎたが、しっかりやってくれ」と言う。頑張っている人間に、心の支えだけは、はずすわけにいかない。シドニーに戻って1年、社員全員で休みもなしに働き、見事に再建してくれた。でも、今度は甘い言葉はささやかない。「やれば、できたじゃないか」とだけ伝える。豪州は、いま、海外の稼ぎどころの一つだ。

海外進出を決めたとき、社内で英語が使えたのは、社長と商社の創業家からきた人間、自分の3人だけだった。以来、人材をそろえる暇もないまま、拠点の数を揃えた。でも、それがビジネス拡大にだけでなく、経営基盤を固めることにつながる。海外からの資金調達だ。

ニューヨークとロンドンに駐在員事務所を開いたのは74年。ビジネス情報を収集させる狙いだったが、3年目に一変した。ロンドンの事務所長が動き、76年2月、日本のリース会社で初めてのユーロダラー建て社債を発行する。総額1500万ドル。海外拠点網で、リースに使う機器類を購入するために使った。

そこから85年9月まで40代の10年間。社長就任を挟んで、ユーロダラー、アジアダラー、そして米ドルでの債券発行を毎年のように続けた。製造業に喩えれば、リース業の原材料はカネ。だが、会社設立時から、資金不足が続いていた。銀行は、金融の引き締め期はもちろん、緩和期でもあまり貸してくれない。歴史の浅さもあるが、自分たちの融資の競争相手になるからだ。やむを得ず、外国銀行から借りていた。

資金不足には、大蔵省の厚い壁もあった。国内で社債を出そうとしても、長期信用銀行などが発行する金融債と競合するためか、長い間、認めない。銀行びいきの当局。前号で触れた、子どものときから身に付いた「反権力」の思いで突き崩そうとするが、穴は空かない。でも、思えば、そうした壁が、国際化へ背中を押してくれたとも言える。しかも、結局は、国内でも社債が自由に発行できるようになった。時間はすごくかかったが、やはり「於不可已」のときに、諦め、やめてはいけない。

12月14日、社長交代を発表した。新社長は、先輩たちが築いてきた国際業務を受け継ぎ、いま、かつて挫折した中国進出に再挑戦している。「於不可已」のとき、必ずや、やめずに続けてほしい。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)