だが、現実はもっと厳しかった。ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』(邦訳 白水社、2017)は、最近公開された資料に基づき、ロシア革命期の実情を明らかにした興味深い評伝だ。

この本によると、実際に殺されたのは、レーニンが子供の頃に親しかった従弟で、逮捕し、秘密のうちに処刑したのは、レーニンが組織したチェーカーと呼ばれる秘密警察だった。それを知ったとき、レーニンがどんな顔をしたかは、伝わっていない。だが、その後も、彼が、秘密警察を維持するよう指示したことだけは分かっている。革命や独裁すら、それを適切に把握し、合理的に管理する官僚制抜きには、成り立たないというわけだ。ましてや、民主国家では複数の利害を調整するための官僚が必要になるのはいうまでもない。

無際限な拡張を許すのではなく批判の言葉を持つべきだ

私たちが公正で平等な「人間的」な生活を営めるのは、官僚制が「非人間的」に、その時々の感情とは無関係に動いているからなのである。もちろん、このことは、官僚制を無限に受け入れるべきだ、という意味ではない。

しかし、官僚が非効率的だと非難されることによって、「前例がないことはやらない」という先例主義に走ったり、非人間的だと非難されることによって、「首相の奥さんだから」「首相の友人だから」等々、「人間的」に忖度そんたくするようになったり、さらには一切の非難を避けるために不作為のサボタージュに徹したりすれば、より酷い官僚制(ブルシット・ジョブ)が生まれるだけだ。

堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎新書)

私たちの社会は官僚制なしでは成り立たないからこそ、無際限な官僚制の拡張を許すべきではなく、そのための新たな批判の言葉を持たなくてはならないのだ。

官庁に限らず、民間企業でも大学でも、どんな組織も生き残ろうとする。チャンスがあれば、自分たちのテリトリーを拡大しようとする。官僚制批判があるにもかかわらず、官僚制が生き残り、制度改革の度に強化されるのは、そうした適応の結果に過ぎない。

このことは、皮肉なことに、当の官僚自身によっても自覚されている。まともな官僚なら自分が官僚制に操られているとは思っても、自分が官僚制を操っているなどとは思わない。官僚たち自らが、自分たちが無力化していると感じるほど、官僚制は拡大しているというわけだ(竹中治堅編『二つの政権交代――政策は変わったのか』勁草書房、2017)。

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