結局、効率的なシステムが他に見つからない
人間は、感情的な動物だ。他人のことでも、それを自分のことのように共感できてしまう。それは、規模の大きくなった「市場」や「国家」を動かしていくのに役立つ能力だった。だが、ボスやリーダーが共感能力を発揮して、その都度裁量し判断している社会は、法治社会ではなく「人治」社会と変わらない。
人治主義には、ボスやリーダーの人格や能力に左右されやすく、機嫌のいい・悪いで判断が左右されかねない(属人的)という欠点があるし、「お前のためを思ってやっているんだ」という「温情主義(父性による支配、パターナリズム)」や、身内だからという「縁故主義(ネポチズム)」のような、依怙贔屓(不平等)を生みがちだ。そういう仕組みは「人間的」かもしれないが、安定した平等な世の中にはなりにくい。「非人間的」に見えたとしても、現代社会には、やはり「法」が必要なのだ。
マックス・ヴェーバーは『経済と社会』において、カリスマ的支配、伝統的支配、合法的支配の三類型を示している(「支配の類型」)が、この合法的支配が、法治主義にあたる。それは、近代国家においては、革命などの例外を除いて、日常政治の原則だ。そして、その合理的支配=法治主義の典型が「官僚制」である。ヴェーバーは、官僚を「働き続ける機関の歯車」であり「非人間的」と表現している。彼の考えでは、官僚制が批判されてもなくならないのは、結局のところ、官僚制よりも効率的なシステムが他には見つからないからである。
革命すら、官僚制抜きには成り立たないレーニンの例
官僚制といえば、いまのロシアがソビエト連邦と呼ばれていた頃は、共産党の一党独裁の下、党官僚による徹底した支配が行われていた。当然、言論の自由も制限されていたので、官僚制の不条理と不合理を戯画化したジョークがたくさん生まれた。その中に次のようなものがある。
レーニンが、革命運動が始まった頃の党のメンバーについて尋ねた。「最近見ないが、彼は、いま何をしているのか」。すると、側近から、1カ月前に、レーニン自身がサインした死刑執行書によって、その同志が死刑になったという事実を聞かされ、レーニンはむっとしたという。この話は、絶対に間違いを犯さないはずの指導者(独裁者)と(共産)党の官僚を皮肉ったものだ。