富士講の行者の姿を見られたのは半世紀前まで

このころにもまだ富士講の行者がいたことがわかる記述である。しかし、それから半世紀あまりが過ぎた現在、白装束に金剛杖と数珠をもち、菅笠をかぶった行者の姿は見られない。いまや富士講は、博物館やその付属施設で往時をしのぶものになってしまったのだ。

富士パノラマラインを西に進むと、富士吉田市から富士河口湖町を経て鳴沢村に入る。右手には河口湖や西湖が迫っているはずだが、住宅地や山々が邪魔をしていて見ることはできない。

ひばりが丘という交差点を左折し、山梨県道71号に入る。その途端に富士山が見えなくなり、右も左も一面の原始林に覆われる。青木ヶ原樹海に入ったのだ。行政区画上は鳴沢村から富士河口湖町にまた戻る恰好になる。

この樹海を抜けると、いよいよオウム真理教の施設が点在していた旧上九一色村の富士ヶ嶺地区へと到達する。

今やあずま屋とトイレがあるだけのサティアン跡地

だが言うまでもなく、オウムの施設があった場所を具体的に示す看板は立っていない。2009年に一度レンタカーで富士ヶ嶺地区を訪れ、サティアンの跡を探したことがあったが、正確な場所は結局わからなかった。

ありがたいことに、いまではネットに「富士・上九廃墟探訪or聖地巡礼用地図」(当時のURL。現在は移転している)が公開されている。これを見ると、どこにどういう施設があったかがつぶさにわかる。この地図を手掛かりに、まずは第2、3、5サティアンがあった「第1上九」の跡を目指すことにする。

第2サティアンはもともと麻原の家族が住んでいたところで、秘密地下室があり、死体を焼却し隠蔽いんぺいするための焼却炉が置かれていた。第3サティアンは作業所や物置、第5サティアンは印刷工場に相当した。

信号のある交差点を右折し、しばらく行くとさらに右折する。道はどんどん狭くなるが、舗装はされている。車の通行はなく、人の姿も全くない。

遠くで牛が放牧されている。目指す跡地は、富士ケ嶺公園という町立の公園になっていた。あずま屋とトイレがあるだけで、あとは一面の野原になっている。もはや一つの建物すら残っていないのに、ただの公園と呼ぶにはおよそ似つかわしくない空気が漂っている。