隔離の地が「島」でなくてはいけなかった理由

それにしても、なぜ似島と長島だったのか。

1894(明治27)年から95年にかけての日清戦争では、軍人や軍属が戦地から病原体を持ち込み、国内でも赤痢やコレラが大流行した。広島には大本営が置かれ、明治天皇が滞在していたから、病原体の侵入をくい止めることは喫緊の課題となった。

臨時陸軍検疫部事務官長の後藤新平(1857~1929)の建議を受け、同検疫部長の児玉源太郎(1852~1906)は1895年6月、広島に近い似島に世界最大級の大検疫所を開設させた。その背景には、天皇という「浄」のシンボルがあった。

広島には大元帥陛下御駐蹕あらせられしのみならず、重要なる諸機関は総てこの地に設置しありて本邦と戦地とに於ける人馬の往来は勿論、荷物等の発送も亦必ずこの地を経て宇品港より積載する事にてありき、乃ちこの地と大連若しくは旅順との間に於ける交通は非常に頻繁なるを以て万一彼の土に於ける悪疫をこの地に齎し帰る等のことありては、大元帥陛下に対し奉りて恐れ多きのみならず疫病の流行と共に重要なる諸機関の運転を妨阻するが如きことありては一大事なり。(『芸備日日新聞』1895年5月13日)

従来のように、港に消毒所を設置するだけでは感染をくい止めることはできない。「島」でなければ、日本国内にコレラや赤痢が持ち込まれ、ひいては「大元帥陛下」、すなわち明治天皇にも感染する可能性を否定できなかったのだ。

検疫と隔離は「ある思想」に基づいて行われていた

征清大総督として戦地から帰還した小松宮彰仁親王(1846~1903)は、明治天皇から「消毒の設備はどうして置いたか」と尋ねられたときに備えて検疫所を開設したと児玉から聞かされ、真っ先に検疫を受けた。ここから「天皇陛下の検疫所」という観念が生まれ、他の凱旋将軍も一人残らず検疫を済ませたという(鶴見祐輔編著『後藤新平』第一巻、後藤新平伯伝記編纂会、1937年)。

前近代から天皇は、ケガレ(「穢」)の対極にあるキヨメ(「浄」)のシンボルであり続けた。だがここで意識されているのは、むしろ近代の衛生学的な「清潔」の観念と結びついた天皇である。

いや正確にいえば、両者は一体となっている。「島」に検疫所を設け、帰還した兵士を集めて徹底した消毒を行い、一人でも伝染病の患者が見つかれば隔離することで、天皇の支配する「清浄なる国土」を守らなければならないという思想が見え隠れしているのである。