恐怖心にかられた正義は、果たして正義といえるのか
「僕らが生きる現実自体、嘘と本当が二重写しになっている。それならもしこの世界が贋物で、本当の世界が別にあったら、人はどのような行動をとるのか」
町田康さんは最新作『宿屋めぐり』でそんな〈贋の世界〉を遍歴する男の姿を描いた。
主人公・鋤名彦名は「主」の命を受け、大刀を大権現に奉納する旅に出る。だがその道中、〈白いくにゅくにゅ〉に吸い込まれ、嘘つきや詐欺師のような人間ばかりが跋ばっ扈こする〈贋の世界〉から出られなくなる。
「デタラメな世界なのだから何をやっても構わない、と考えてもよさそうですが、主人公はそうはしない。何となく、正しいことをしないと元の世界に帰れないような気がしてしまうんですね。でも、それは何故なのか」
その1つの鍵が「恐怖心」ではないかと町田さんは続けた。鋤名は〈贋の世界〉に来てなお、〈本当の世界〉で仕えていた「主」が自分を見ているという考えに付きまとわれる。
「そこにある人間のメカニズムを描きたかったんです。超越的な存在、神のようなものに対する恐怖心が、何か正しいことをやらなきゃいけないという思いの根底にあるのではないか、と」
だが、恐怖心にかられた正義は果たして本当の正義なのだろうか?
例えば珍太という男が登場する。彼は鋤名を騙し、嘘ばかりつく。怒りに燃えた主人公は謀略を計り、罪を認めさせようと珍太を拷問にかけるのだが──。
「珍太は自分が悪だとは決して言わず、主人公には嫌な感じだけが残る。ひょっとすると自分が善をなすために、彼を悪と規定して滅ぼそうとしたのかもしれないからです。肉体的に相手を滅ぼした彼の正義は侵食され、精神的に滅ぼされていく」〈贋の世界〉で宿屋をめぐる鋤名はそのうちに殺人を犯したり、街を爆弾で吹き飛ばしたりしてしまい、口からも嘘ばかりが出てくるようになる。それでも自分は正しいはずだと彼が「主」に問い続けるとき、読者は「最初は『あるじ』と読んでいた『主』を、『しゅ』と読んでいる」と町田さんは語った。
そして、もはや〈本当の世界〉と〈贋の世界〉の区別さえ怪しげになる鋤名にとって、最後まで信じられるのは「主」から預かった大刀を奉納するという自身の「役割」しかない。
「主人公の背負う刀を自分の自我や意識、魂というものだと考えると、この世界を生きる僕らもまた、彼のように宿屋を巡っているということ。人間として預かった重いものを、そうやって何らかの形で返さないといけない。こうした物語を描くのは、僕の中にそんな考え方があるからなのでしょう」