坂本龍馬の斡旋で、長州藩と同盟を結んだときには、京都の小松邸が舞台となった。土佐藩と同盟を結んだときにも、小松はそこにいた。

薩長同盟が成立した翌日、龍馬が寺田屋で官吏に襲われて負傷した。寺田屋で女中として働く妻おりょうといっしょに鹿児島の温泉で療養してはどうかと「新婚旅行」をもちかけたのも西郷と小松だ。じっさいに薩摩藩船で鹿児島まで連れて行っている。

一般には薩摩藩が武力討幕に乗り出す前に、土佐藩の後藤象二郎らが動き、徳川慶喜に大政を奉還させたと見られている。オモテ向き、「討幕の密勅」に署名したのは西郷と大久保と小松なのだが、そのいっぽうで小松は諸藩と折衝を重ね、大政奉還実現に奔走していた。

だが「王政復古の大号令」直後の、小御所会議という「ハレの舞台」に小松の姿はなかった。小松には持病があった。痛風・糖尿病・脚気ともいわれる。これが原因で小松は上京できなかったのだ。かわりに西郷と大久保がスポットライトを浴びることとなった。

維新後は、徴士参与、総裁局顧問、外国事務局判事、外国官副知事を歴任。従4位下にも叙され、地味ではあるが、西郷や大久保とともに「薩長政府」の中心にいた。

だが、病が悪化。明治3年(1870)7月20日に大阪で他界する。

3年後、征韓論争に敗れた西郷が鹿児島に下野。さらに4年後、西南戦争で西郷は他界し、その翌年、大久保が紀尾井坂で暗殺される。

小松帯刀は地味で、縁の下の力持ち的存在だった。明治維新のレールを敷いたにもかかわらず、「ハレの舞台」に出席できない運のなさも手伝い、西郷、大久保ほど名が知れることはなかった。

一大プロジェクトの立て役者であるにもかかわらず、発表当日に病欠し、レジュメから名前が落ちたようなものだ。

だからこそ、われわれは、小松帯刀の名を忘れてはならない。