国家(政府)権力の行使は、常にチェックを受けなければならない。成熟した民主国家において、このチェックは、国会、裁判所、メディア(国民)が行う構造になっているが、そのチェックを行うには権力行使についての「記録」の「保存と開示」が必要不可欠である。国家権力の行動が記録されず、開示されなければ、チェックのやりようがないからね。

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ゆえに独裁国家は権力活動の記録を残さず、開示もしない。場合によっては政府の都合のいいように記録を改ざんすることすらある。

だからこそ森友・加計学園問題のときから繰り返された、何かあったときに「記録は存在しない」「記録は廃棄した」「記録は復元できない」という日本政府の姿勢を抜本的に改めさせなければならないんだ。

そして、これまで日本政府は「ルールに基づいて適切に処理した」という答弁の一点張りだが、そもそもこのルール自体が間違っている。

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では、今の文書廃棄に関するルールをどう変えるべきか。

この点を議論するのが国会であり、文書廃棄に関する新ルールやその根本思想について野党が的確に問題提起できれば、国民の強い支持を得られると思う。

だが、安倍さんの不正をなんとか明らかにすることに固執している今の野党のやり方では国民の支持を得られないだろう。必死になって安倍さんの不正を指摘するが、どれもこれも明確な裏付けがなく、国民にとっては不正の雰囲気を醸し出そうとしているだけのように見えるからだ。

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公文書管理についての2つの思想

記録を残すことに関しては、大きく2つの考え方がある。「とにかく全て残す」というところから出発する考え方と、「原則残したくない」というところから出発する考え方だ。

アメリカは前者、日本は後者だ。

僕は前者に賛成で、ゆえに、「原則残したくない」という今の日本の思想を、「とにかく全部残す」という思想に切り替える必要があり、それをやるのが政治家の仕事だと思っている。

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もちろん、アメリカのように「とにかく全ての記録は保存する」という考えに立つとしても、あらゆる記録を完全に保存するには莫大な費用と人員がかかってしまう。

だから保存期間というものを設定する。保存期間内は必ず保存するようにするが、しかし保存期間を過ぎた場合には、仮に紛失したり、劣化したりしても責任は問いませんよというように免責を与えるものだ。

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このような考えに立つと、保存期間を過ぎたとしても、「積極的に」廃棄・消去する必要もなければ、そのような動機も生まれない。

他方日本のように「できる限り保存はしたくない」という考えに立つと、保存期間とは、その期間だけは「やむを得ず」「渋々」文書・記録を残さなければならない期間だということになる。ゆえに保存期間が過ぎれば、できる限り早く廃棄・消去したい動機が生まれる。