肩は強いが、動きでは負けていない

ジャイアンツという球団はとにかく才能ある選手をき集める。仁志敏久、元木大介などの若手選手の台頭により、川相の出場機会は次第に減っていく。そして98年のドラフトでジャイアンツは近畿大学の遊撃手を逆指名で獲得した。二岡智宏である。翌99年から監督の長嶋は二岡を先発起用した。

川相は34歳になっていた。二岡の将来性を見込んでポジションを与えることは理解できると言った上で、こう付け加えた。

「バッティングでは(自分が伍するのは)厳しいと思いました。ただ、守備では彼は肩は強いけど、動きでは負けていないと思いました」

その後の行動が実に川相らしい。遊撃手はもちろん、二塁手、三塁手の守備練習をこなすようになったのだ。

「(二岡が来たからといって)はい、どうぞと引き下がるつもりはなかった。二岡がショートならば、自分はセカンドでもサードでもできます。レギュラーになる前にやっていたポジションですから。試合途中から出てもいい、守備固めでもいい。どんな使い方をされてもいいと思っていました」

現役を続けるには、プライドが邪魔になる

すでに川相は犠打の日本記録も作っている。そんな選手が控えを受け入れるというのは屈辱ではありませんでしたか。そう訊ねると川相は首を振った。

「ぼくはそんな風には思わなかったですね」

そしてこう続けた。

「プライドってよく言うじゃないですか。でもぼくはそのプライドが邪魔になって現役を早く辞めた人も見てきた。ぼくからすればまだまだできる人でした。こんなポジションできるか、あるいはこんな役割で我慢できるかって思うのかもしれない。監督の側にも、チーム事情ってあるじゃないですか。それを受け入れないと引退に追い込まれる。でも、折角憧れのプロ野球選手になったんです。滅茶苦茶ラッキーな人生じゃないですか。入れると思っていなかったところに入ったんです。もう要らないって言われるまでやりたいなと思っていました」

2003年9月、川相は引退を発表している。2002年から監督となっていた原辰徳から現役引退して、コーチに就任しないかという話をもらっていたのだ。川相は現役に未練があったが、これも縁だろうと原の誘いを受けることにした。

ところが——。

9月末、原が監督を辞任。10月に入って球団代表から改めて二軍コーチの話を貰った。しかし、来季の準備をしていた原が辞任したことに、川相は釈然としない気持ちを抱えていた。川相はコーチの話を断り、自由契約となった。

そんな川相に声を掛けて来たのは落合博満が監督を務めていた中日ドラゴンズだった。