犠打通算533本の世界記録はいまだ破られていない。元プロ野球選手の川相昌弘氏は38歳まで巨人で活躍し、大記録を打ち立てた。その理由を「ドラフト4位だったから」と振り返る——。
※本稿は、田崎健太『ドラヨン』(カンゼン)の一部を再編集したものです。
ぼく、バッティング捨てたんです
川相がその力を発揮するようになったのは背番号を60番から0番に変えた89年のことだった。川相にとってはジャイアンツに入って七年目のシーズンに当たる。この年から監督が再び藤田元司になっていた。
「この年からぼく、バッティング捨てたんですよ」
どういう意味ですか、と聞き返すとこう続けた。
「藤田さんはピッチャーを中心に守りの野球をやっていくと言っていたんです。自分の得意な分野は守備だったんで、とにかくしっかり守ること。そして(打撃では)バントをしっかり決める。エンドランのサインが出たら、どんなボールでも転がす。それを徹底してやったらレギュラーになれるんじゃないかなと思ったんです。バッティングはどうでもいいやって」
どうせ(投手は自分のことを)舐めてくるだろうから、甘い球だけ打てばいいって考えることにしたんですよ、と悪戯っぽい笑顔になった。
「藤田さんの野球って、初球から打つな、だったんです。(自分の場合は)2ボールノーストライクではだいたい待て。3ボール1ストライクでも待て。得点圏にランナーがいる以外では、ほぼ打たせてくれないです。基本2ストライク(取られて)から勝負。それで粘って相手投手に球数を投げさせる。それってベンチの指示だから仕方がない。ある意味気楽なんですよ」