借金を「錬金術」と呼んだ内田百閒

また、同じく明治の文豪・谷崎潤一郎のエピソードもなかなかです。貞淑で従順な奥さんにもの足りなさを感じてしまい、奥さんを友人の佐藤春夫に譲ってしまいます。

他人のことを何とも思っていないようなこれらのエピソードはなかなか理解が難しいですが、なんだかんだで和解してしまう太宰と檀、谷崎と佐藤。ちなみに佐藤と再婚した谷崎の元妻・千代は、死ぬまで佐藤と添い遂げました。

決して貧しかった訳ではない文豪の方々ですが、我々の想像がつかないくらいお金に対する意識が低い人もいました。

例えば大学で教鞭をとっていた内田百閒。給料をもらったそばから使ってしまい、毎月のように友人知人から借金をし、闇金にも手を出します。何度も差し押さえに遭ったり、債権者に追われて逃げたり、家を追い出されてバラックに住んだりとおよそ大学の先生とは思えない生活ぶりでしたが、「旅行に行きたい! 酒を飲みたい! うまいもんが食いたい!」と思うと、懲りずにまた借金をして自分のやりたいことは決して譲りませんでした。

そのうち、「給料日は借金取りが来るから嫌いだ。でも借金をすればうまいもんが食えるから好きだ」などというよくわからない境地に辿り着き、「そもそも借金っていうのは、金のある所からない所に移動させているだけのこと」と言い出します。「借りた金を生活のために使う奴は借金の素人。徹底して放蕩に費やすべし」と宣言し、最終的には借金することを「錬金術」と呼びました。

川端康成は文藝春秋の社長から2000万円借金

また日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成も、借金の天才でした。

ある日突然、文藝春秋の編集部に現れた川端は、当時の社長に「金庫にいくらありますか?」と聞き、「え? 300万くらいは……」と社長が答えると「欲しい壺がある」と言って全額持って行ってしまい、壺を買うのに使ってしまいました。

当時の300万円は、現在の価値に換算すると約2000万円に相当します。

また、『伊豆の踊子』を執筆する際に伊豆の旅館にしばらくの間滞在した時も、宿代数カ月分も1円も払いませんでした。

もちろん借りたお金は返した方が良いですが、このくらい図太く生きてみたいものですよね。