「アートは鑑賞するもの」と思われていた

僕は昨年、10年ぶりに日本で個展を開きましたが、それまでアジアでの拠点は香港でした。香港は「アート・バーゼル」の開催地にも何年か前になったことから、アジアのアート市場のハブになっています。香港のハーバーシティでパブリックアートの展示をしたところ、中東圏にも作品が広がり、そこからヨーロッパにも進出しました。香港経由で中国でも仕事をしています。

日本はアートを見ることにつけては世界で一番といってもいい。美術館で若冲の展示があれば数時間でも並ぶでしょう。でも、現代の日本には生活の中に芸術がない。アートは鑑賞するものという概念がいまだにあって、だから僕自身も日本での活動の糸口をなかなか見つけられなかったということもあります。それがこの数年で少し変わってきたように思います。

たとえば若い起業家や経営者層が、アートに対する興味を非常に持ち出しました。最終的にものの価値ってどこに行き着くかと言えば、「有用性がないもの」なんですね。有用性があるものには価値の限界がある。世界有数の大規模な美術館や博物館がなぜあるのかといえば、世界の価値観の集合体は、権威となるわけで、文化にはそういう側面がある。だから経済的な豊かさと文化は切り離せないんです。

撮影=宇佐美 雅浩
現在はニューヨーク・ブルックリンにスタジオを構える

「意義や価値」を伝えていかないと流行りで終わる

いまの日本で若い起業家や経営者層が何をもって自分の豊かさを定めるのか考えたときに、若くて影響力のある経営者が「芸術」という感覚に興味を持ち出した。いっぽうで経営哲学の中にアートを組み込むという風潮も出てきていますよね。つまりいろいろなアングルからアートがやっと見直されつつあるように思います。ただ、アートというジャンルが話題になったら、それに乗じてアーティスト自身も「アートの意義や価値」を啓蒙していかないと、「流行り」で終わってしまう。

アートにおける成功を指す要素は「コマーシャル」と「クリティカル」だと言われていて、前者は証券性やマネタイズという意味での物質的な価値、後者は批評性、つまり歴史に伸るか反るか、アートの厳しい批評軸を超えて、評価を獲得し系譜に乗るかということです。そうした意味で、ぼくら作家はその二重構造の中で戦い、両方の評価を獲得して初めてプロといえるようになります。

(構成=吉田 直人)
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