名古屋会場に比べると豊田会場には「歯ごたえのなさ」を覚える

豊田会場を歩いてみると、特に駅周辺のパブリックアートスペースで、多くの美大生が熱心に調査学習を行っていたシーンに出くわした。この会場は、まさに行政と地元企業とアーティストが、摩擦なく穏便に展開している地方芸術祭の典型であり、学生の段階でこれを押さえておくことは、たしかに重要であるかもしれない。そのうえで、事実上どんな制約があり、何に配慮すべきなのかを学生諸君が学び取れるならば、フィールドワークは成功となろう。

そこで冒頭の「物足りない」という話に戻るのだが、名古屋会場では産業都市名古屋のアイデンティティーに挑戦するかのような作品が続いていたのに対し、こちら豊田市では地域との調和の下に作品が存在しているように感じられるため、ある種の「歯ごたえのなさ」を覚えるのかもしれない。ただこれは良いとか悪いとか言った話でもなく、鑑賞者の好みにも左右される論点なので、名古屋会場と豊田会場を批判的に比較し、各自が思いを深めればよいかと思う。

会場は特攻兵士たちが任地へ向かう数日を過ごした場所

豊田会場に展示されている作品群のうち、どうしてもここで鑑賞する必要性があるものは、ホー・ツーニェン「旅館アポリア」である。彼はシンガポール出身であるがゆえに、故郷における日本軍の侵略についてアートの手法によって解釈を与えようとしているのだろう。

この作品は、日本の軍国主義の拡大を、軍部・哲学者・芸術家など多面的視点から描いた映像作品である。上映会場となった喜楽亭は元料理旅館であり、戦前は軍部関係者が宴席に用いるとともに、特攻に出撃する若い兵士たちが任地へ向かう数日を過ごした場所でもあった。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019

会場はアートスペースではないため、上映にあたっては観客が溢れてしまう部屋も生じてしまい、鑑賞者には困難が強いられることになる。このあたりの対応は、円頓寺の幸円ビルで上映されていたキュンチョメの「声枯れるまで」の混雑とは意味が異なる。

「声枯れるまで」は、力作ではあるものの、なぜあのビルで上映され、観客が満席で見られないというオペレーションを我慢しなければならないのかという必然性に乏しい。一方、「旅館アポリア」は、どうしてもここで見る必要性があるため、観客は苦難を甘受してでもこの場所にいなければならない。

喜楽亭の不便さは、鑑賞者に意識の覚醒を与える

芸術文化の享受のためには、鑑賞者は不便を受け止めなければならいというテーゼは、アートの側からしばしば宿題のように提起される。建築家・安藤忠雄の建造物はたしかに美しいものが多いが、スロープが裏口に付いているなど、利便性という観点からは批判されることもある。現代アートの作品の中にはどうしても場所の文脈が必要なものもあり、鑑賞者の身体をそこに合わせなければならないケースが出てくる。

その際、鑑賞者は、単に精神だけでなく、肉体を通じて作品および空間と対峙することになるため、いまだかつて経験したことのない感動を、味わえることがある。「身体性」は、ポストモダニズムの主要な論点の一つであり、喜楽亭の不便さは、鑑賞者に意識の覚醒を与えるという興味深い現象を引き起こしている。(続く)

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