忖度と無縁だから独自取材ができる

話を記者クラブに戻そう。

国連特別報告者として世界各国の言論や表現の自由を調査しているデビッド・ケイさんが2016年4月に来日したとき、記者クラブの廃止に言及している。記者クラブはアクセスと排除をうたう存在であり、ゆえにフリーランスやオンラインのジャーナリストの不利益になっているという指摘はまさに的を射ていた。

ただ、記者クラブに加入していないからといって、ニューヨーク・タイムズ時代もウォール・ストリート・ジャーナル時代も、東京特派員として仕事がやりづらかったかと問われれば答えはノーだ。

ニューヨーク・タイムズは、政権に批判的なメディアというレッテルを官邸や外務省から貼られた。2009年に東京支局長に就き、官邸へあいさつに行ったときには前任者が書いた批判的な記事が取り上げられ、官邸で取材をする条件としてその前任者の記事を批判し、謝罪する文を官邸に提出するように求められたが、もちろん断った。忖度そんたくとも同調圧力とも無縁の環境だからこそ、調査報道や独自の取材に専念することができた。

「談合的」に記事が生み出される仕組み

記者クラブは公的機関や業界団体などに、中央や地方を問わずに存在している。

加盟することで得られるメリットを考えてみると、各種の会見や発表に関する連絡が確実に届くことで、記者がストレスを感じることなく仕事ができる点があげられる。当局側としても媒体ごとに個別に対応するよりも、記者クラブという窓口を介して一括に連絡できることで、仕事の煩雑さを避けることができる。

アクセス・ジャーナリズム(権力者から直接情報を得る手法)はアメリカにも存在するが、必要以上に依存度が深まればさまざまな弊害が生まれる。忖度や同調圧力が色濃く飛び交う雰囲気となり、暗黙の了解のもとで、ストーリーを決める権利を情報源に譲ってしまう。半ば談合的に生み出された記事に果たしてどのような価値があるのだろうか。