私がこれまでも言ってきたように、愛というものは機械的に「これをしなくちゃいけない」と規定されてしまうところからは生まれにくいのです。
だから、クリスマスとかバレンタインという記念日に依らず、その人自身のことをイメージしながら自由な発想でふわっと贈る何かのほうが、思いを伝えるのかもしれません。そのとき提案したいのが、「レトリカルな(レトリックを用いた)」ということなのです。レトリックというのは、ストレートな科学的、論理的言語では語れない豊かな意味を表現するための技法です。
単純なところでは、「君は素敵な人だ」はストレートな表現ですが、そこで「君は宝石だ」とか「君はキラキラ輝いている」というのがレトリカルな表現ということになります。「私はあなたのことが好きです」「愛してます」と言うことばは、誰にでもわかるものであって、論理的な意味は100%伝わっている。けれども実は、自分のオリジナリティは何も伝わっていないではないか。
大切なのは、2人だけが知る意味を持たせること
それを言っている自分の中の豊かなイメージが、そこにちゃんとのせられているのかどうかを、もう一度見直してみるのです。そして、その向こう側にある「あなたでなければダメなんだ」とか、「一緒にいることがこんなにうれしいんだよ」というような、言葉では伝えきれない何かを、レトリカルな表現で伝えようとするわけなのです。
そうすると、「君のことを考えながら歩いていたらちょうどお花屋さんがあって、思わずこの花を買っちゃったよ」という一言の持つ意味は、言う人によって変わってきます。その2人の間にどんなことが起こってきたか、それまでの文脈によって意味が変わってくるのがおもしろいところです。
そして、そこからどんな思い出が広がって、どんな会話につながっていくか、まったく違うことになっていくのです。
レトリックが成立するのは、その状況を互いに共有しているからです。私とあなたのお互いしか知らないようなものが言葉で引き合わされて、「この人の言っていることは、私の知っているあのことなんだ」と気がつくことで、時間を共有しているとか愛情が深まるような言葉の使い方ができていくのです。
「あなたと一緒にいることが私にとって特別なことなんだ」という感じが、そこから波動として伝わってきます。そして、「この人と一緒にいたら、人生が意味深く豊かになる」と思わせる何かから、とても愛を感じることができます。
文化人類学者、医学博士、東京工業大学教授
1958年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。岡山大学で博士(医学)取得。86年よりスリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、その後「癒やし」の観点を最も早くから提示し、生きる意味を見失った現代社会への提言を続けている。日本仏教再生に向けての運動にも取り組む。代表作『生きる意味』(岩波新書)は、06年全国大学入試において40大学以上で取り上げられ、出題率第1位の著作となった。近著に『愛する意味』(光文社新書)がある。