クリスマスやバレンタインデーなどの記念日に、高額なプレゼントを贈り合うカップルがいる。文化人類学者の上田紀行氏は「あまりに高額になると、価格が愛のバロメーターのようになってしまう。特別な思いを伝えたいときは、2人だけが知る意味を言葉に乗せることが大切だ」と指摘する――。

※本稿は、上田紀行『愛する意味』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Sandralise)

“ぼっち”はいけないとばかりに訪れる冬商戦

毎年、12月に入ると、学生たちにこんな冗談を言ったりします。

「また今年も、受難の季節が始まったね。これからクリスマス、お正月、バレンタイン、ホワイトデーだよ。さてこれをどうやってのりきるか、たいへんだよねー」

日本でクリスマスパーティというものが始まったのは戦後の高度成長期になってからですが、このときはお父さんが買ってきてくれるケーキを家族で食べるというイベントでした。

バレンタインデーにチョコレートを送るという風習も、私の小学校時代にはまだありません。いつの頃からか始まってあっという間に広がり、大学生の頃にはもう「チョコがもらえないぼくは、今日一日どうやって過ごしたらいいんだ」と、モテない男子たちは集まってぼやくというような疎外感さえ味わっていたものです。

どうも、私たちは、そういうマーケティング戦略にすぐのせられます。「これが最新の愛情表現ですよ」と広告をうたれると、「みんながやっているなら私も」と一気に広まってしまう。人の目から見た評価を無意識に優先させてしまうという日本人の特性が、恋愛という特別に個人的なことでさえ、「右に倣え」にさせてしまうのでしょうか。

バブル時代もいた「女性とうまく話せない恋愛弱者」

当時、日本はバブル真っ盛りでした。クリスマスは彼氏や彼女と過ごすものだという恋愛常識がまことしやかに作られ、バレンタインデーにはやたらと高価なチョコやプレゼントを贈り合うようになっていったのもこの時代です。

私自身は中学・高校の6年間を男子校で過ごしたということもあって、男女関係についてはまったくコミュニケーション力の弱い恋愛弱者の学生でした。大学に入ってようやく女の子のいる環境になり、コンパも頻繁に開かれていましたが、女の子と何を話したらいいかもわかりません。

やっとデートにこぎつけても、相手のようすが気になり、ちょっとでも表情が硬くなると、「自分の話がつまらないせいだ」「誘った映画の内容がつまらなかったせいで、怒っているに違いない」とか深読みしすぎて自爆してしまうのです。

夫に愛人を作られ逃げられたという立場の母親は、私が思春期に入って成長していくようすに父親を重ね合わせて見てしまったのでしょう。特に、私と母にとって悲劇的だったのは、私が父親似だということでした。

そして母は、私にこう言うようになります。