自由に選択できる時代の歪み
あらゆる統計を見ても、グローバルなレベルでは人々の所得や生活環境は大きく改善しており、先進国でも(そのペースは落ちたとはいえ)経済成長がつづいている。それにもかかわらず幸福度が上がっていない矛盾(パラドクス)のひとつの理由は、「人生を自由に選択できる」世界に私たちが慣れていないからだろう。
わずか200年ほど前までは身分制社会で、どの家に生まれたかで職業が決まり、結婚相手、も親が選んでいた。そんな社会を大きく変えたのが産業革命による驚異的な経済成長と、それを背景とした近代の誕生だ。
第2次世界大戦が終わると大国同士は戦争することができなくなり、「ゆたかで平和な」後期近代が始まった。1960年代には若者たちを中心に価値観が大きく変わりはじめ、自分の人生を「自由に選択する」ことを当然と考えるようになった。こうしてヒッピー・ムーブメント(アメリカ)やパリ・コミューン(フランス)、学生運動(日本)などが先進国で同時多発的に起こったのだが、これは偶然ではない。「後期近代化(自由主義化)」は現在まで一貫してつづいていて、もっとも「リベラル」なオランダでは売春もドラッグも安楽死も個人の自由だ。
「自分の人生を自由に選択できる」というのは数百万年の人類史上初めての経験で、人間はそのような「異常な」環境に適合するように生得的にはつくられていない。当然、さまざまな場所で歪みが生じる。そのひとつが、「自由な社会でも選択できないもの」が残ることだ。
「選択できないもの」の筆頭が人間関係で、夫婦であれば離婚で解消できるが、子どもは親を、親は子どもを選べない。その結果、悲しい出来事が起こるのは昨今のニュースが示すとおりで、まさに「家族という病」だ。