陸軍「悪玉」、海軍「善玉」は本当に正しいのか
この論点に対する最新の研究が牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦―秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書、2018年)である。
同書は歴史的想像力を働かせて、注目すべき議論を展開している。どうすれば秋丸機関は開戦回避論に説得力を持たせることができたのか?
「3年後でもアメリカと勝負ができる国力と戦力を日本が保持できるプラン」を示して時間を稼ぎ、ドイツの敗北と米ソ冷戦の始まりを待つ。このような「臥薪嘗胆」論であれば、開戦は回避可能だった。あるいは3年も待たなくてよかった。戦後の日本外交史研究の知見は、数カ月の先延ばしでも回避の可能性があったと指摘しているからである。
同書が明らかにしたのは、陸軍の開戦の動機である。海軍はどうだったのか。開戦をめぐって、陸軍が「悪玉」ならば、海軍は「善玉」である。海軍「善玉」論は正しいのか。
この疑問に対する先駆的な研究によれば、永野(修身)海軍軍令部総長は1941(昭和16)年7月21日の段階で、早期開戦論を主張している。さらに10月30日になると、今度は嶋田(繁太郎)海相が開戦を決意する。海軍は「悪玉」である。
海軍が開戦に積極的だったのは、組織利益を守るためだった。1930年代から海軍は軍拡を進めていた。「戦争を為し得ざる海軍は無用の長物なり」。そう非難されれば、戦争の決意をもって応えるほかなかった。軍事戦略上は「万一の僥倖(ぎょうこう)」を賭けた陸軍の方が組織利益を優先させた海軍よりも合理的な判断を下していたことになる。
そうだからといって、海軍を単純に「悪玉」と決めつけることもできない。1941年前半の日米交渉に海軍上層部が大きな期待を寄せていたことも明らかになっているからである。海軍にとっての転換点は別のところにあったのではないか。
独ソ戦の勃発で暗礁に乗り上げた日米交渉
転換点として真っ先に思いつくのは1940年9月27日の日独伊三国同盟だろう。この点に関連して、敗戦の翌年、日米交渉に携わった岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)陸軍大佐の重要な証言がある。岩畔の証言によれば、三国同盟の圧力があったからこそアメリカを交渉の場へ引き出すことができた(井上寿一『戦争調査会』講談社現代新書、2017年)。
ところが軌道に乗り始めたかに見えた日米交渉は、6月22日の独ソ戦の開始によって、暗礁に乗り上げる。
独ソ戦の勃発によって、ソ連とも戦争をすることになったドイツは手いっぱいになる。そのドイツと同盟関係を結んでいる日本の外交ポジションは低下する。対するアメリカの外交ポジジョンは強化される。アメリカは強気の姿勢に転じる。交渉の成立には日本側からの思い切った大幅な譲歩が必要になった。
独ソ戦の影響は日米交渉にとどまらなかった。ソ連はドイツを相手に戦うことによって弱体化する。そのように見通す陸軍にとって独ソ戦は好機到来だった。陸軍の仮想敵国は伝統的にロシア・ソ連だったからである。陸軍は7月2日に関東軍特別演習(関特演)を実施する。関特演は対ソ作戦の準備行動だった。