「対米戦争回避」で一貫していた松岡外交

この北進論は国策の矛盾を表す。なぜならば日本は4月13日に日ソ中立条約を結んでいるからである。日ソ中立条約の締結を主導したのは松岡(洋右)外相だった。ところが7月2日の政府決定の際に松岡は北進論を支持している。

一見すると松岡外交も矛盾に満ちていた。しかし7月2日の松岡が北進論を支持するとともに、南部仏印進駐の中止を主張していることに注目したい。

近衛(文麿)内閣は関特演の決定に先立って、6月25日に南部仏印進駐を決定している。南部仏印進駐に対してアメリカは態度を硬化させる。アメリカの対抗措置は在米資産の凍結だった。この対抗措置は事実上の対日全面禁輸につながった(森山優「日米交渉から開戦へ」『昭和史講義:最新研究で見る戦争への道』ちくま新書、2015年)。

南部仏印進駐がアメリカやイギリスを挑発することは、同時代においても認識されていたと推測できる。南部仏印から日本軍機がフィリピンやシンガポールを直接攻撃できるようになるからである(井上寿一『戦争調査会』)。

以上を踏まえれば、矛盾に満ちた松岡外交に一貫性を見いだすことができる。それは対米開戦の回避だった。松岡の意図は、三国同盟と日ソ中立条約によって日本の外交ポジションを強化したうえで、アメリカとの直接交渉によって開戦を回避することにあった。同様に南部仏印進駐は対米関係を決定的に悪化させるゆえに、中止を求めた。松岡外交は対米開戦回避で一貫していた。

「万一の僥倖」に賭け、真珠湾攻撃に突入

対する海軍は北進論を抑制する目的で南部仏印進駐を進める。南部仏印進駐は、アメリカによる対日経済制裁の段階的な実施を見越した「予防的措置」だった。仏印の重要軍需資源を確保すれば、経済制裁に対抗できるからである。

こうして北進論と南進論は相打ちになる。国策の調整と統合は近衛内閣から東条(英機)内閣に持ち越される。

東条内閣は11月1日に和戦両論併記の決定を下す。12月1日午前零時までに外交交渉がまとまらなければ、武力発動となる。

アメリカ側の回答はハル・ノート(編註:アジアの状態を満州事変前に戻せという米国国務長官ハルの通告)だった。海軍は開戦以外に選択の余地がなかった。陸軍も「万一の僥倖」に賭けた。12月1日午前零時までに外交交渉は戦争を回避できなかった。こうして真珠湾攻撃が始まった。

井上 寿一(いのうえ・としかず)
学習院大学 学長
1956年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院を経て学習院大学法学部教授、2005年に同大学法学部長。2014年から現職。法学博士。吉田茂賞、第12回正論新風賞などを受賞。著書に『機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか』『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』(共に講談社現代新書)など。
(写真=Roger-Viollet/アフロ)
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