元事務次官のエリートは「バカ」になったのか

ひとつには心理的視野狭窄がある。

確かに川崎の事件はセンセーショナルなものだったが、引きこもりの子どもの多くはそうした凶悪な犯罪を起こさない。引きこもりの人は今、全国に100万人くらいはいると推定されているが、8050問題と言われるようなケースであんな大量殺人を起こしたケースはこれまでになかったのではないか。

元次官は農水省トップとして日常の仕事の中で各種統計にも触れていたはずだ。客観的な「数字」で状況を冷静に分析・判断する。複数のデータを照らし合わせて、事実を突き詰める……。息子を殺すという行為にはそうした理知的なものが一切含まれていない。

息子を生かしてはおけない。そんな気持ちに支配され、自分の恐れていることにばかりに目がいってしまう心理的視野狭窄の状況に陥ると、自分の考えや予想は100%正しいと思い込んでしまうことがある。その結果「殺人」という行動になってしまったのではないか。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/SoumenNath)

「なぜ周囲に助けを求めなかったのか」

精神科医である私が不可解に思ったのは、元次官が「なぜ周囲に助けを求めなかったのか」ということである。私のクリニックは主に高齢者を対象とする。患者の中には、精神障害者の子をもつ親世代の患者もいるが、8050問題に当てはまる人がいるかどうかはわからない。これまでのところ、そうした事情を吐露する患者はいなかった。

一方、その逆はかなりの人数を診ている。要するに、老親の介護を抱え込みうつになってしまうようなケースだ。実際、これは8050問題と比較にならないくらいの悲劇を生んでいる。

介護をする子どもが高齢者の親に対して暴力を働いて殺したりケガをさせたりするケースは少なくないが、それ以上に多いのは、親を世話する子どもの側が介護うつとなるケースであり、中には自殺にまで発展する深刻なケースもある。

幸いなことに、私の患者には「介護殺人」「介護自殺」に関わった方はいないが、介護でうつになった方はかなりの数になる。とりわけ長年、親を在宅介護していて精神的にも肉体的にも限界にきているにもかかわらず、介護施設に親を預けることに対して強い罪悪感を抱き、自分が無理に無理を重ねダウンしてしまう事例が多い。また、介護保険を使った介護サービスを利用することにさえ抵抗感をもって、自分ひとりで介護を抱え込んでしまったケースもある。

これまで税金や介護保険料を払い続けてきたのだから、もっと「公」に頼っていいのに、あるいは周囲の人に頼っていいのに、それができなかったばかりにうつになり、共倒れの状況になってしまう。