▼川上全龍氏(臨済宗妙心寺派本山塔頭 春光院 副住職)
「不快」を受け止めることができるか否か
アップルのスティーブ・ジョブズやツイッターの創業者であるエヴァン・ウィリアムズなど、世界的に成功を収めた経営者が禅や瞑想を学んだり、マインドフルネスの流行が後押ししたため、欧米で禅への関心が高くなっているのは確かです。私は米国留学を契機に、春光院で仏教や禅を日本語や英語で教える坐禅会を開催していますが、おかげで、当寺にも世界のトップエリートたちが足を運んでくれるようになりました。
彼らのようなエグゼクティブは「実践主義には限界がある」という危機感を抱いています。論理的な思考だけでは突破できない壁があることを、知覚しているんですね。だからこそ、自分の枠を超えるために哲学や思想を身につけなければと感じている。世間で役に立たないと思われている哲学や禅に興味を抱くのは、そのあたりが背景にあるのでしょう。
坐禅会では「バイアス」(先入観や偏見)という言葉を使い、気づきの機会を設けています。よく例に出すのがアジアの麺食文化についてです。日本人にとって音を立てて麺をすするのはいたって普通のことですが、欧米では行儀のよくないこと。日本に来た欧米人はラーメンや蕎麦をすする音を不快に感じています。ただ、日本人もイタリア料理店に行けばパスタはすすりませんし、もしすする人がいれば、不快な音として認識すると思います。実はこれも「そういうものだ」という固定観念です。その枠から外れてみると、「すする音」自体は「ただの音」であるだけで、善いも悪いもないわけです。
重要なのは自分が「不快」を受け止めることができるか否かを知ることです。麺をすする音も、それが当たり前と思っている人にとっては何でもない音です。たとえば読書中、外で誰かがチェーンソーを使っていたら「うるせーな」と感じますが、自分がチェーンソーを使って木を切る立場なら、達成感があって、あの音はきっと気持ちいいはずですよね。
聖徳太子が読んだとされる「維摩経」には「不二法門」という考え方があります。善と悪を分けているのは自分の頭の中なのだから、善悪はもともと1つだという考えです。たとえば、誰だって嫌いな人はいる。私も然りです。この人は善だ、悪だと分けると心地いいんですね。でも、悪人だと思っていた人の妙にヒューマンな部分を見せられると、どうしたらいいかわからなくなりますよね。