生徒から「ジュース買うてこい」と言われた衝撃
僕は大学で社会学を教える前に、小学校、中学校、全日制高校、夜間定時制高校で教師をやっていました。なかでもそれまで生きてきた価値観をひっくり返されるような経験をしたのが夜間定時制高校での体験です。
学校では通常教師が生徒を教え、評価し、場合によっては罰します。つまり学校は教師が権力を行使するようにつくられた制度であり装置です。しかしながら、僕が赴任した夜間定時制高校では、その「常識」はまったく通用しませんでした。「おい、岩本。100円やるさかい、ジュース買うてこい」。就任初日、僕が生徒から投げつけられた言葉です。
従えば学級崩壊が待っており、逆らえば何をされるかわからない。僕はとっさに「200円やったら行くねんけどなぁ、100円では行けへんなぁ」と言ってその場を乗り切りました。それが正解だったというわけではありません。教師という権威をいったん脇において、コミュニケーションをとる意思を示したことが「評価」されたのだと思います。
この夜間定時制高校は、教師への暴力、バイクでの乱入、カンニングや器物損壊など「反学校文化」に染まっていました。僕にとってそれは強烈な異文化体験であり、生徒やその保護者たちとコミュニケーションをとるには、その文化の文法を学ぶしかありませんでした。その経験が僕の社会学へのアプローチに大きく影響していると思います。
社会学が教育から医療まで「何でもあり」になるワケ
社会学は本当に守備範囲が広く、多種多様なジャンルがあります。教育も、宗教も、医療も、文化も、科学もすべて社会学の対象です。
社会学者のカール・マンハイムは、こうした領域別の社会学を「連子符社会学」と呼びましたが、方法論にはディシプリンがあって、社会学特有の学問のやり方があります。逆にそのディシプリンさえあれば、何でも社会学の研究対象になるということです。僕のゼミの学生の卒業論文のテーマも「化粧療法」「アニメのリメイク」「お菓子の交換」とバラエティに富んでいます。
ただ、ディシプリンどおりに論文を書けば社会がわかったことになるかというと、そんなことはありません。知識が入ったとき、自分の過去や体験がスキッと説明できること、それが社会学の醍醐味です。それは実体験だけでなく本や映画のなかで体験したことでもいい。
僕は高校時代に太宰治の『人間失格』を初めて読んだとき、ものすごく気持ち悪いと思いました。主人公の葉蔵は、人に好かれたい、褒められたい、と思う気持ちが強いあまり、絶えず演技をして生きています。そういう葉蔵の姿がお調子者だった自分の幼少期を見ているようで耐え切れず、短い小説なのに最後まで読み通せませんでした。