「客が近所の人だったら耐えられるんですか」
瞬時に「そういう問題なのか?」と思ったが、それこそ家庭のことに口を挟むことはできない。私は通りすがりの外国人ジャーナリストである。ジャーナリストの仕事として、状況を理解するために質問をぶつけることはあっても、二人の関係性を断ち切るような踏み込み方をするのはご法度である。私はあくまで傍観者なのだ。
彼らなりに折り合いがついているというのであれば、わかりきった問題を部外者の私が蒸し返す意味なんてない。わかっている。わかっているが、それでも言わずにはいられなかった。
「客が近所の人だったら? 顔見知りだったら耐えられるんですか?」
「仕方ない。子どもたちのためだ。あの子たちが飢えていることのほうが耐えられないんだ。それに妻が安心して仕事できるように私は見守っているんだ」
のちの取材でわかったのだが、この街の売春のシステムとして、女にはパートナーがついているそうだ。
「子どもたちを救うため」に妻は壊れた
内心、「お前が働けよ」という言葉を反芻していた。でも、出せなかった。それは私が決して言ってはならないことだからだ。妻のほうもそう思っていたのか、それとも夫と同じ気持ちなのかはわからない。
なぜか。どんなに質問を重ねたとしても、彼女の言葉で答えが語られることはないと思ったからだ。
光を失った眼球の奥には、彼女の生のエナジーがまったく感じられない。死んだ目というのがこういうものかと痛感させられた。
夫は子どもたちを救うためだと言った。そのために妻が壊れてしまった。それでも家族なのだ。私が思っていた単位の家族のなかには、夫以外とのセックスは、決してあってはならないこと。それが家族愛によって崩されてしまった。
愛とは、向ける対象以外には、ときに残酷なのだ。