2013年以来の市長選挙で負け続けた原因は僕にある
僕が大阪維新の会の代表だった2013年の堺市長選挙は、投票率50.69%。敵方竹山修身氏が19万8431票。大阪維新の会の候補は14万569票で完敗だった。
僕が政治家を辞めた後の2017年の選挙は、投票率44.31%。敵方竹山修身氏が16万2318票。大阪維新の会は今回当選した永藤さんが挑戦して13万9301票で負けた。今回よりも約3.5%投票率が高い中で、竹山氏は約2万3000票差の勝利なのだから、今回の永藤さんの約1万4000票差の勝利が軽く扱われるいわれのないことは明らかである。
この2017年の選挙も、僕に責任がある。
もともとこの堺市長選挙は維新にとって因縁のある選挙だった。まず2009年に、僕が全面支援した元大阪府庁幹部、つまり僕の部下であった竹山修身氏が、当時の現職候補者を破り当選。ところが竹山氏が、堺市長就任後、大阪都構想に猛反対し、自民党から共産党までの既存政党とがっちりタッグを組み、維新と敵対。竹山氏は、維新と組むよりも、自民党から共産党までと組んで多数派を味方にした方が、議会運営が楽だと思ったのだろう。
そこで2013年の堺市長選挙において竹山氏を交代させようと、大阪維新の会が候補者を擁立したところから因縁が始まる。竹山陣営は、自民党から共産党までが反都構想で一致団結し、僕と大阪維新の会は、先ほど述べたように竹山氏に完敗した。そこから維新の勢いがなくなったとか、都構想は頓挫したとか散々言われるようになった。そして堺は反都構想のシンボルとなる。
この2013年の維新候補者に当初擁立しようとしたのが大阪では著名な若手テレビ・アナウンサーだった。このアナウンサーは、堺市出身で市長になりたがっていたのだが、結局はテレビ局に止められて断念し、アナウンサーを続けた。そこで維新は、当時の維新堺市議を候補者として擁立したが敗北。この候補者は堺市議の身分を捨てて、急遽の擁立に応じてくれたが、準備不足は否めなかった。
そして2017年の選挙。このテレビ・アナウンサーが再度、堺市長選挙に挑戦したいと僕に言ってきた。ある夜に、彼と話したところ「必ずテレビ局を退社するので、もう一度チャンスを与えて欲しい」と言い、堺市政をこうしたい、ああしたいと熱く語ってくれた。僕は維新執行部にそのことを伝え、維新執行部はこのアナウンサーと定期的に会食を持ち、コミュニケーションをはかっていた。
(略)