女系継承を認めた結果「乗っ取り」が多発

アジア各国では側室制があったために、皇帝や王に何十人も子供がいるのは普通でした。皇帝や王自身が健康でありさえすれば、男系子孫をいくらでも残すことができ、継承者が途絶えることはありませんでした。側室制によって、男系子孫を絶やさないようにしたことは貴族や武家も同じです。

これに対してヨーロッパでは、前述のように公妾の子に王位継承権が認められなかったため、王統の継承は、皇后・王后の出産にかかっていました。当然、后によっては子供ができなかったり、女子しか生まれなかったりということがたびたび起こります。そういう状況で男系継承にこだわれば、王統は断絶してしまいます。そこでやむなく、女系継承を認めて王統の継承の安定を図ったのです。

しかし、女系継承を認めた結果、ヨーロッパ各国の王室では、婚姻政策による王位乗っ取りのようなことが頻発しました。有名な例が、ハプスブルク家の積極的な婚姻政策です。1496年、スペイン王女フアナはハプスブルク家の皇子フィリップと結婚しました。2人の間にできた長男が、カール5世(スペイン名:カルロス1世)です。

スペイン王国に男子の跡継ぎがなかったため、カール5世はスペイン王位を母フアナから相続します。こうして、ハプスブルク家は合法的にスペイン王国を「乗っ取った」のです。同様の手法でハプスブルグ家は諸国を乗っ取り、現在のオーストリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、スペインに相当する、広大な領土を有する大帝国を築き上げました。

フランスはなぜ男系継承を維持できたか

そうした婚姻政策が横行する中でも、フランス王室は男系男子の王位継承を800年以上も維持しました。987年にユーグ・カペーがフランス王位に就いてから、フランス革命で1793年にルイ16世が処刑されるまでの期間です。その後1814年からの復古王政で即位したルイ18世、その後を継いだシャルル10世もブルボン家の男系、7月王政で擁立された国王ルイ・フィリップも、ブルボン家の支流であるオルレアン家(ルイ14世の弟フィリップの子孫)の血筋でした。

1848年の二月革命によってルイ・フィリップは廃位され、イギリスに亡命。フランス王政はここで終わりました。とはいえ、フランス王統の男系男子の血筋は今日まで続いており、現在はオルレアン家の当主であるジャン・ドルレアンが、名目上のフランス国王ジャン4世となっています。つまり、王家の「血の継承」が1000年以上も続いていることになります。