人々に「日本人」という意識を涵養するためにまず使われたのが「日の丸(太陽)」や「富士山」「白砂青松」といった、現在も日本の象徴として多くの人が頭に浮かべるイメージです。高いところに立てば見渡せるほどの範囲の国(カントリー)から、広大な国土空間を持つ日本国(ネーション)へ……。人々の帰属意識を変えるには、東北の人でも九州の人でも国民全体が統一して持つことができる、抽象的なイメージが必要でした。

作家の三島由紀夫が日本文学研究者のドナルド・キーンと旅行をしていたとき、道中にあった木を三島が指差し、「これは何の木?」と植木屋に聞いたという逸話が残っています。彼の頭の中にある「松の木」は、自然に生えているそれというよりは、能舞台の鏡板に描かれている松の絵のようなものだったのかもしれません。日本という国民国家を新たに成立させるためには、そうした抽象的なイメージが必要だったのです。

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そもそも明治以前の日本人は、住む場所が違えば言葉も違い、顔を合わせても意思疎通はなかなか難しかったと思います。薩摩の人にとって越後や津軽の人は外国人のようなものでした。僕自身も若い時分に熊本の山奥に取材に行ったところ、土地の古老の方言がきつくて、まるで意味がわからなかった記憶があります。それほど日本各地で言葉がバラバラだったのです。

作家 猪瀬直樹氏

そこで明治政府が人工的につくったのが「標準語」です。政府は学校制度を定めると国語教育を通じて、日本全国どこでも通じる言葉を普及させていきました。

同様に国民統合のために使われたのが文部省唱歌です。僕は『唱歌誕生 ふるさとを創った男』という本で、「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川」の歌詞で知られる「故郷」という歌が、どのようにつくられていったか、作詞・作曲者である高野辰之と岡野貞一という2人の男の人生を追って調査しました。2人は「故郷」のほかにも、「紅葉」や「春の小川」「朧月夜」など、文部省唱歌を代表する名曲を数々生み出しています。そこで歌われる「うさぎ追いしかの山」は、日本の国土の心象風景として人々に国民意識を植えつける役割を果たしていったのです。

そして明治政府が日本国最大のシンボルと位置づけたのが「天皇」です。

日本が国として初めて1つにまとまったのは、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康へかけての天下人の時代です。ただし、彼らは「天下」という言葉を使って日本全国の統一を成し遂げましたが、そこに「外国」という観念はありません。中国やポルトガルといった交易相手のことは知っていましたが、日本という国はそれらの国々とある種の緊張関係を持って対峙している国際社会の一員なのだ、という認識までは持っていませんでした。