最高峰の料理店で働くために上京

ボキューズ・ドール2019 優勝のデンマーク

日本人でありながら、世界一のフランス料理人を目指した髙山氏。その姿を追うことで見えてきたのは、世界における日本のフランス料理の立ち位置と、秘めたる可能性だった。

髙山氏がフランス料理に初めてふれたのは18歳の頃のこと。

牧歌的な雰囲気を残す福岡の田舎町で育った髙山氏は、料理好きな祖母の影響もあり中学を卒業する頃には自然と料理人を志したという。だが、当然のように町中にはフランス料理はなく、洋食を食す機会もほとんどなかった。漠然とフランス料理への関心があった程度だったが、叔父の「社交の場では世界中どこに行ってもフランス料理が中心だ」という言葉がなぜか脳裏からはなれなかった。

料理人を志す友人たちは、当然のように料理学校に進学していった。だが、髙山氏の選択はちがった。叔父の紹介もあり、1996年当時日本でも最高峰との呼び声高かった「シェ・イノ」で働くために上京することになる。髙山氏は当時をこう振り返る。

「高校卒業後の進路として、私の中で3つの選択肢があったんです。1つはフランス、もう1つは福岡。そして、最後に日本で一番厳しい環境で修行するということでした。現場でこそ技術が伸びると考えていたので、料理学校に行く気になれなかった。それなら、日本一厳しいといわれる料理店で、どこまでやれるか勝負してやろうと考えました」

新しいスタイルはどうすれば創造できるのか

日本で一番厳しいフランス料理屋の看板は、髙山氏の想像以上のものだった。最初の一年間は、まともに包丁に触れる機会もなく、ひたすら先輩の動きを追うだけで一日が過ぎていった。激務で職場を去る同僚もいるなか、自身も何度も心が折れかけたこともあったという。だが、歯を食いしばり睡眠時間を削ってでも、フランス料理にしがみついた。空いた時間に、料理を試行し、休日も暇を見つけてはフランス料理を食べ歩いた。

髙山氏は日本一厳しい環境に耐え抜くことで、飛躍的に技術を伸ばしていく。上京から5年が経つ頃には、一通りの技法を身に付け、調理場も任されるまでになっていた。しかし、料理の技術の向上と比例してある想いも募っていったという。

「日本のフランス料理は、本場のフランス料理を“再現”することが最も良しとされている面があったんですね。悪くいえば、ブランドの踏襲というか、パクっているというか。たとえばこの3つ星ホテルのシェフが、3つ星レストランではこういう作り方をしているから、それをそのまま作ろう、といったふうに。ガストロノミー(美食学)に関していえば、日本のお客様もそれを求められて来店される方も多い。ただ、本来フランス料理は感性を生かし、常に独自性を持ち新しいスタイルを追求していくものだと思っていたんです。どうすれば新しいスタイルを創造することができるのか。それで僕は行き詰まってしまった。本場のフランスを知らずに、本当にフランス料理に携わってよいのか、という想いもありました」