正反対に、主体性を勘違いするサラリーマンもいる。1980年代後半のバブル期を越えたあたりから、余暇が生活のキーワードになり、ビジネスの現場でも「仕事はそこそこでよい。プライベートを重視」という風潮が生まれた。「会社にいる時間よりも私生活に費やす時間を大事にする」、それが主体的な生き方だと信じた若いサラリーマンは、おそらく満足した時間を過ごせなかっただろう。
私の言っていることは、矛盾しているように聞こえるかもしれない。サラリーマンには主体性が重要だと指摘しながら、主体性を発揮するサラリーマンは苦労すると痛言しているのだから。しかし、この矛盾に思えるロジックを理解できなければ、「会社に使われるだけの人」として定年まで勤め上げることになるかもしれない。
“組織の一員”と“もう一人の自分”を演じ分ける
サラリーマンは主体性を身に付けなければならないが、それを社内で発揮してはならない。例えるなら、アメリカンヒーローのスーパーマンのようなものだ。普段はスーツに身を包み、会社のなかで際立った存在ではない。けれども、いざ自分の能力を発揮する場面になると、そのスーツを脱ぎ捨てスーパーマンとなって大活躍をする。クラーク・ケントがサラリーマンのままで空を飛んだり、暴走する機関車を止めたりしてはならないのだ。
必殺仕事人に例えてもいい。名優だった故・藤田まことさんが演じた中村主水(もんど)が、奉行所のなかで殺し屋稼業の本性を見せたら、同心として禄を食む(ろくをはむ)ことはできなくなる。家庭でも表向きは婿養子として、妻や姑からいびられる地味な存在くらいがよいのだ。クラーク・ケントも、中村主水も、主体性を発揮するときは「サラリーマン」というよろいを脱ぎ捨てるから、組織の一員として生きていける。
どちらの物語もフィクションだが、主人公が演じ分ける“組織の一員”と“もう一人の自分”は、日本のサラリーマンが定年後も含めた生き方を考えるうえで、わかりやすいフレームになると思う。付け加えれば、そういう複数の自分をもつことが、人生を豊かにすることにつながるという確信がある。