最先端のエッセンスだけをつまみ食いしたい――。気持ちはわかりますが、役立つことだけ身につけようという「ハウツー」は、「科学する心」とは正反対です。
科学する心とはなにか。『寺田寅彦随筆集』が参考になります。寺田は明治から昭和初期の物理学者ですが、その発想は少しも古びていません。どんな事柄も科学に結びつけて考える。何でも科学的に分析してしまうのは科学者の「業(ごう)」ですが、寺田は飛び抜けた連想力の持ち主でした。「金平糖(こんぺいとう)の角(つの)の研究」など連想を発展させて、思いがけない関係を見出しています。
現代人は連想力を失っています。ネットの普及で情報量は増えましたが、知的に豊かになったとは言い難い。あふれる情報に振り回されるばかりで、限られた情報から想像力を働かせ、連想を発展させる機会や時間はどんどん減っています。本来、「考える」という行為はそうであったはずです。
科学とは「実用」だけの学問ではありません。もとを正せば文化の一つ。音楽や美術、文学と同じように、「なぜ」を突き詰めていくという楽しみの一つでした。
そうした科学の源流として重要なのは「博物学」の考え方です。大航海時代に発達した博物学は、奇妙な動植物を収集し分類する学問でした。経済的な見返りはありません。切手収集と同じような「趣味」でした。
現代の科学は「実用」を追うがために分化しすぎました。『ヘラクレイトスの火』は成果ばかりを競うようになった現代科学への批判の書。また『科学の終焉(おわり)』は多くの分野では「偉大な発見」がもう期待できず、発想を転換しなければ生き残れないという現状を辛辣に描いています。
遠くに離れた科学を身近に引き寄せるためには、科学の源流である博物学の原点に立ち戻ることです。私は「新しい博物学」と呼んでいます。科学がどこに由来し、どう使われ、何をもたらしたか。それをひとつながりに考えることで科学を捉え直すのです。
『銃・病原菌・鉄』は「ヨーロッパ人が世界を支配したのは頭脳が優秀だったから」という通説に、科学的な手法で反駁しています。本書によれば、旧大陸の人間が新大陸を征服できたのは銃、病原菌、鉄という3つが有利に働いたから。その3つは――たとえば家畜にしやすい動物に恵まれたために病原菌への免疫を獲得できた――など地理的条件にすぎないといいます。通説を退けられたのは、著者が生理学の博士号を持っていたことと無関係ではありません。