放課後に子どもを預かる「学童保育」。供給が不足していることから、国は「放課後子供教室」での代替を進めつつある。だが早稲田大学の増山均名誉教授は「子供教室は大人によって与えられた活動プログラムに参加する場所。学童保育とは『何もしなくてもよい時間』も保障する場所で、代替にはならない」と指摘する――。

法律のどこにも「学童保育」の規定はなかった

子どもの放課後の居場所の一つとして、いまは誰もが知っている「学童保育」。戦後1950年前後に、共働きの親たちが安心して働き続けるために、放課後の子どもの安全な居場所を求めて生み出した共同保育が「学童保育(学齢児童のための保育所)」の原点です。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/paylessimages)

1960年代の高度経済成長期に全国で進んだ女性労働と都市化の広がりのなかで、大都市部に出現した「カギっ子」(放課後親のいない留守家庭に鍵をあけて入り親の帰宅を待つ子ども)問題への不安から、学童保育への需要は一気に高まりました。

しかし親たちの必要から生み出された新しい社会的需要(①共働き家庭の子育て支援、②放課後の子どもの居場所)にこたえる「学童保育」は、残念ながら教育・児童福祉関連法のどこにも法の規定がありませんでした。そのため公的な財政支援は等閑視され、公的施設としての学童保育づくりは進みませんでした。

実は、児童福祉法には法制定の当初から、放課後の子どもの遊びの場として第40条に「児童厚生施設(児童遊園と児童館)」の規定がありました。しかし当時は、地域開発とモータリゼーションが始まる前ですから、全国どこの地域にも、路地裏や子どものたまり場など、放課後の子どもの遊びと生活の場がたくさんありました。「ガキ大将集団(子どもの遊び仲間)」とともに、地域の子どもたちに目をかける大人のつながりが存在していたので、学童保育や児童館がなくても放課後の子どもの生活は保障されていたのです。

子どもの居場所づくりが後回しになったワケ

放課後の子どもの生活環境が大きく変化し、子どもの発達上の問題が誰の目にも見え始めたのは、1970年代からです。問題の大きな特徴は、次の諸点に現れました。

第一に、産業構造の変化によって都市化が進み、伝統的な村落共同体のつながりが希薄化するとともに、子どもが安心して遊べる自然環境が失われていきました。

第二に、進学競争と親の教育熱の高まりを背景として、子どもの塾通いや習い事が拡大しました。同時に学校教育が子育ての中心になり、放課後の子どもの遊び仲間の世界は軽視されていきました。

第三に、テレビの普及からはじまり、子どもたちを惹きつけてやまないゲーム機器、電子メディアの爆発的普及があります。遊びの室内化・個人化によって仲間関係の変化がはじまり、子ども世界の変容への心配が高まりました。

こうした社会・文化環境の変化を背景として、「放課後の子どもの生活」の保障、安心と安全の居場所を求める親の関心は次第に高まり、特に働く親の強い要求の下で生み出された「学童保育」とともに児童館や遊び場、子ども集団づくりの取り組みが広がっていきました。

しかし、地域開発においては、子どもの遊び場・居場所づくりよりも経済効果を生み出す土地活用や施設づくりの方に優先順位があり、子どもの環境整備は後回しにされてきました。働く親にとって切実な「学童保育」については、その施設をささえる法律の根拠がなかったために、さらにその発展はとどめられていたのです。