※本稿は、『京料理人,四百四十年の手間: 「山ばな 平八茶屋」の仕事』(岩波書店)の「終章」を再録したものです。
70歳でも現役でいることが嬉しい
私は48年間、料理人の人生を歩んできました。平八茶屋の経営はいまは21代当主の晋吾に継承しましたが、現在もなお現役の料理人です。立命館大学を中退し、「近新」で修業をしていた22歳の頃には、70歳になってもまだ料理人として生きていようとは想像すらできませんでした。
いまは、70歳になってもなお現役でいることを嬉しく思っています。以前のように調理場に立つことは減りましたが、料理長が新しい料理をつくるたびに必ず「あたり」はどうかを求められます。
「あたり」とは業界用語なのでしょうか、味付けという意味です。少し味見しますと、すぐに「これはこうしてほしい」などの注文を出します。
ある料理は、美味しいけれども甘みが勝ってしまい、醬油の味が陰に隠れたようになっていました。醬油と甘みがあたっている味付けがよいのです。「あたっている」とは、辛くもなければ甘くもない状態で、味付けとはその接点なのです。
お客様が美味しいと思う味付けとプロの料理人が美味しいと思う味付けはかなり違います。お客様が美味しいと思う幅はわりと広いのですが、私たちが美味しいと思う幅はとても狭く、お客様からすると違いを感じないほどの微妙な差になります。
一流の料理人は感性と味覚が鋭い
吸い物で「ああ、しょっぱいな」とお客様に思わせたらもうお終いです。それはプロの仕事にはなりません。素人のあたりです。私たちはもっと狭いところで勝負しています。お客様が「美味しいね」と思っていたとしても、私たちからすると「少し醬油の味が強いかな」と思うわけです。私たちはプロが美味しいというあたりまでもっていかなければなりません。
その微妙な味付けに、プロの料理人としての自負があります。私はそのような厳しい世界で生きてきました。
料理長にあたりを聞かれて、それをパッと口に含んだだけで、「こうせえ、ああせえ」いろいろと指示を出します。
料理人は感性と味覚が鋭く豊かでないと一流にはなれません。感性はまだ磨くことができます。味覚は天性のものです。ある程度のあたりは出せますが、本当の味はプロの料理人でも出せない場合があります。味覚は鍛えようにも鍛えられません。味覚は天性のものだからです。