大阪引き上げ直前に「串カツ」をスタート
だが、大阪と東京の店を管理・運営するのは至難の業だった。経営的にギリギリの状態のところへ追い打ちをかけるようにリーマン・ショックが発生、接待需要が主力の高級店は壊滅的な打撃を受けた。貫は7000万円の借金を抱えて行き詰まった。
東京を引き払い大阪に引き揚げようとしたとき、田中が串カツ屋の開店を提案した。実は、田中は串カツの本場、大阪・西成の出身。父は串カツが好きで、伝統の味「串カツ」のレシピを研究開発し、それをメモに残していた。たまたま見つけた田中は、そのレシピを使って貫と串カツ屋を開業したいと考えていたのだ。
貫は世田谷駅から遠く離れた住宅街の雑居ビル1階に、スナックの居抜き物件を見つけた。14坪24席、三流立地であり、家賃は坪2万円と安かった。残っていたテーブルの上に買ってきた板を貼って見映えを良くし、パイプ椅子を購入して席をつくった。壁には木札のメニューを吊り下げた。こうして大阪・西成にあるような大衆酒場風の店を開店した。費用はほんの数百万円、このうらぶれた店こそ、「串カツ田中」1号店の「世田谷店」だ。
「全店禁煙」で新たな顧客の創造に挑戦
08年12月に開店すると、これが起死回生の大ヒットになった。毎月出る利益で借金を返済、すぐに中目黒に2店舗目を出した。貫は三流立地の家賃の安い場所で「串カツ田中」が大ヒットしたことに自信を得た。
貫は直営で数店舗出店した後、東京・中野にあった直営の方南町店を売却、FC展開に踏み切った。貫の飲食店オーナー仲間がFCに加盟すると、以後猛スピードで展開しており、16年9月には東証マザーズに上場した。18年7月時点で200店舗を突破している。
串カツ田中は、18年6月から180店舗で禁煙に踏み切った。大衆酒場チェーンとしてはかなり冒険であるが、家族連れの客を呼び込むなど、新しい顧客の創造に挑戦している。串カツ田中は鳥貴族とともに、コンスタントに新規出店を進め、居酒屋市場に構造変化を起こそうとしている。