共産党を激烈批判しながら、副委員長の手記を掲載
雑誌名も「新潮45」とし、リニューアルの軸に据えたのは日記と伝記だったが、残念ながらうまくいかず、編集長が替わるたびに内容も変わり、今回の“事件”で、ついに休刊してしまった。
60年を超える週刊新潮には数々のスクープがあるが、私の中で一番思い出に残っているのは、1975年の新年合併号に掲載された袴田里見共産党副委員長が宮本顕治委員長を批判した「独占手記」である。
同誌は創刊以来、共産党を激烈に批判してきた雑誌である。そこに現役の副委員長が宮本を批判した手記を寄稿したのだから、大新聞を含めて大騒ぎになった。私も駆り出され、暮れから新年にかけて袴田の自宅へ日参したが、本人に会うことさえできなかった。
ほかにも、外務省機密漏洩事件の蓮見喜久子元外務省事務官の告白や、皇太子(現・今上天皇)のインタビューまでやってのけている。
新聞やテレビにはできないことをやる
古参の週刊新潮編集部員から聞いた話だ。地方へ出張に行くとき、当時は1等・2等・3等と別れていたが、必ず1等に乗れと厳命されたという。そこには一流会社の社長や文化人が乗っているから、向こうへ着くまでに名刺を渡して親しくなれというのである。
私も事件取材で地方へよく行ったが、週刊新潮はハイヤーをチャーターして警察を回るが、こちらはタクシーを乗り継ぐから、取材が後手後手になる。警察署の対応も、新潮と現代とでは差があり、向こうは署長が出て来るが、こちらは副署長か、その下だった。
齋藤という頭脳が奥の院にいて、編集者や記者たちをカネをかけて育て、新聞やテレビにはできないことをやる。これが新潮ジャーナリズムの伝統だったと思う。
他の出版社の週刊誌も、試行錯誤しながら競い合い週刊誌ジャーナリズムを築き上げてきたのである。
やや保守色の強い新潮社、文藝春秋、リベラルというより主義主張のない講談社、小学館などが切磋琢磨し合い、新聞やテレビとは一味もふた味も違う言論の場を形づくってきた。
「ワイドショーの下請けのようになっている」
『週刊新潮が報じたスキャンダル戦後史 週刊新潮編集部編』(新潮文庫)のあとがきで、松田宏元編集長が、新潮ジャーナリズムについてこう書いている。
「私たちは、大げさでなく『命がけ』で取材をした。新潮ジャーナリズムと呼ばれた一連の記事も、そうした日々の中から生まれていったと自負している。奇っ怪な宗教団体・創価学会を追及し、いい加減な共産党のバケの皮を剥がした。(中略)もちろん、それ以外にも、永田町や経済界、芸能界から夜の銀座のネオン街に至るまで、人間の悲喜劇はいくらでも転がっていた。信じられないほど悪いやつも、おかしな人物もたくさんいた」
だが、ここ20年で週刊誌を含めた雑誌界は様変わりしてしまった。部数は低迷し、上からは「赤字を減らせ」「部数を上げろ」と矢の催促。編集現場は委縮し、ジャーナリズムなど打ち捨てて、死ぬまでセックスと声高に叫び、丸ごと一冊老人・健康雑誌に路線変更する週刊誌、不倫愛だ略奪愛だと、他人の身の下ばかりを追いかけ、ワイドショーの下請けのようになっていると批判される週刊誌ばかりになってきている。
この現状を齋藤が見たらこういうに違いない。「いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ」。老舗の新潮ジャーナリズムが大きく揺らいでいる今こそ、編集に携わっている人間みんなで、雑誌のレーゾンデートルとは何かを、もう一度真剣に考えてみる必要があると、私は思う。(文中敬称略)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。