「新聞社と同じでは勝てない。切り口とタイトルが命だ」
小林秀雄は齋藤のことを「齋藤さんは天才だ。自分の思ったことをとことん通してしまう。キミ、それこそ天才じゃないか」といったという。芸術新潮を創刊したのも齋藤である。
その齋藤が、出版社が初めて出す週刊誌に関わったのは1950年代半ば。56年2月に週刊新潮が発売され、編集長は佐藤亮一(後の社長)だったが、実質的に企画から編集現場を取り仕切ったのは齋藤であった。
当時は、週刊朝日が100万部を誇り、他の新聞社系の週刊誌もそれなりの部数を出していた。そこに、人も情報も少ない出版社が殴り込みをかけたのである。
新聞社系と同じことをやっていては勝てない。切り口とタイトルが命だ。それをよく表す記事がある。
1958年夏に全日空機が下田沖に墜落する。週刊新潮の編集部員は必死で乗客名簿を探す新聞を尻目に、その便をキャンセルした乗客を探せと齋藤に命じられる。タイトルは「私は死神から逃れた 七時三十五分をめぐる運命の人々」
人間の本質的な欲望「金と女と権力」を扱えばいい
パリで女友だちを殺して肉を喰った佐川一政容疑者が、心神喪失を理由に日本へ強制送還されたとき、齋藤が付けたタイトルは「気をつけろ『佐川君』が歩いている」。他にも挙げてみよう。
「『知る権利』より『知る興味』」「日本を左右する大『朝日新聞』を左右する人々」「『縮刷版』よ消えてくれ 日本の新聞が『文化大革命』を囃したころ」「神戸男児惨殺容疑者『少年写真』騒動 人権大合唱で圧殺されたこれだけの『民衆の声』」
これらが、あの静謐な部屋から次々に生み出された。私には到底できない。
齋藤は新潮ジャーナリズム、出版社ジャーナリズムをつくりあげたのである。
自らを「俗物」、「女が好きだ」と公言して憚らなかった。週刊誌が読まれるためには、人間のもっている本質的な欲望「金と女と権力」を扱えばいいと喝破する。
これは齋藤が文芸雑誌で追求し続けた主要テーマでもあった。齋藤は「僕は週刊新潮で文学をやる」と常々いっていたようだが、彼にとって文芸雑誌も週刊誌も同じ土俵だったのであろう。