その日の夜、少しはなれた大きな町に住む、仲のよい友人から、手品師に電話がかかってきました。

「おい、いい話があるんだ。今夜すぐ、そっちをたって、ぼくの家に来い。」

「いったい、急にどうしたというんだ。」

「どうしたも、こうしたもない。大劇場に出られるチャンスだぞ。」

「えっ、大劇場に。」

「そうとも、二度とないチャンスだ。これをのがしたら、もうチャンスは来ないかもしれないぞ。」

「もう少し、くわしく話してくれないか。」

友人の話によると、今、評判のマジックショーに出演している手品師が急病でたおれ、手術をしなければならなくなったため、その人のかわりをさがしているのだというのです。

「そこで、ぼくは君をすいせんしたというわけさ。」

「あのう、一日のばすわけにはいかないのかい。」

「それはだめだ。手術は今夜なんだ。あしたのステージに、あなをあけるわけにはいかない。」

「そうか……。」

手品師の頭の中では、大劇場のはなやかなステージに、スポットライトを浴びて立つ自分のすがたと、さっき会った男の子の顔が、かわるがわる、うかんでは消え、消えてはうかんでいました。

(このチャンスをのがしたら、もう二度と大劇場のステージには立てないかもしれない。しかし、あしたは、あの男の子が、ぼくを待っている。)

手品師は、迷いに迷っていました。

「いいね、そっちを今夜たてば、あしたの朝には、こっちに着く。待ってるよ。」

友人は、もう、すっかり決めこんでいるようです。手品師は、受話器を持ちかえると、きっぱりと言いました。

「せっかくだけど、あしたは行けない。」

「えっ、どうしてだ。君が、ずっと待ち望んでいた大劇場に出られるというのだ。これをきっかけに、君の力がみとめられれば、手品師として、売れっ子になれるんだぞ。」

「ぼくには、あした約束したことがあるんだ。」

「そんなに、大切な約束なのか。」

「そうだ。ぼくにとっては、大切な約束なんだ。せっかくの、君の友情に対して、すまないと思うが……。」

「君が、そんなに言うなら、きっと大切な約束なんだろう。じゃ、残念だが……。また、会おう。」

よく日、小さな町のかたすみで、たった一人のお客さまを前にして、あまり売れない手品師が、次々とすばらしい手品を演じていました。

手品師の葛藤は簡単に払拭できるのか

この「手品師」の話は学習指導要領の「正直、誠実」の項目に対応しており、「誠実に、明るい心で生活すること」を子どもたちに学び取らせる狙いがある。だが、手品師が最後、男の子の前で、心から明るい気分で手品を披露しているようにも思えない。ビッグチャンスを捨てなければならなかった痛恨の思いが簡単に払拭できるとしたら、そのほうが不自然な話であるからだ。