「忘れえぬ女」と『アンナ・カレーニナ』の興味深い関連とは?
かのレーニンが、表紙がぼろぼろになるまで繰り返し読んだことでも知られるこの「『アンナ・カレーニナ』がこの絵と何の関係が? 実は発表時から車上の女性のモデル探しが行なわれ、多くの人が彼女こそアンナ・カレーニナと信じた。
もちろんアンナは現実の女性ではない。トルストイが頭の中で産み出したヒロインではあるが、しかしアンナ説を全くの荒唐無稽と切り捨てることもできない。なぜなら『アンナ・カレーニナ』執筆中に、トルストイは当時のロシア画壇の指導者イワン・クラムスコイに自分の肖像画をまかせていたからだ。
(当時)もうすぐ五十歳になるこのロシア文学の巨匠は長らく肖像画を拒否しており、クラムスコイから「いくら嫌がっても、あなたの死後、あなたを直接知らない画家に描かれてしまいますよ。それでよいのですか?」と詰め寄られ、ついに承知した経緯がある。
クラムスコイの画力や人間性を気に入ったことも大きかったろう。トルストイ家に滞在中、二人はよく芸術論を戦わせたという。
肖像画と小説は平行して進んだ。画家が作家を鋭い眼で観察していた時、作家もまた同じほど鋭い眼で画家を観察していた。それはすぐさま小説の中に反映され、アンナの肖像を描く画家が登場し、その姿にクラムスコイの特徴がそのままあらわれた。
またトルストイが描写するアンナは、南方の情熱的な血の混入をうかがわせる硬い黒髪で、こめかみ部分がカールしていたとある。まさにこの絵のように!
貴婦人なのか、それとも高級娼婦なのか
北方のモナリザ本作は、『アンナ・カレーニナ』が刊行された6年後に完成した。クラムスコイはタイトルを《見知らぬ女》(неизвестнаяニェイズヴェーストナヤ=the unknown woman)と付け、それ以上のことはいっさい語っていない。
そのそっけなさゆえに、最初は高級娼婦を描いたのではないかといわれ(馬車が無蓋だから貴婦人ではないとの薄弱な理由にすぎない)、不快感を表明する評論家さえいた。
仮にもしアンナを描いたのだとしたら、間違いなくこれはヴロンスキーと出会ったばかりの明るく溌剌とした彼女ではない。恋を知り、罪を負い、心に重いものを抱えた姿だ。社交界から閉め出された頃の、あるいは子供に会わせてもらえなかった時の、恋人との関係が変質した時期の彼女に違いない。
構図はロー・アングルなので、視線はこちらを冷たく見下すかのようだ。その冷たさの感覚は、背景の屋根や軒に溶けずに残っている雪によって強調される。ただし季節は真冬ではない。ロシアの真冬を幌無しの馬車では走れない。とすると極寒でなく、人物もまた冷ややかなだけではないかもしれない。
よく見れば、鮮やかなブルーのリボンをほどこしたマフ(円筒状の毛皮の防寒具)から、手を出そうとしている。あるいは何らかの身振りの後、再びマフへ手を入れようとしている。
いずれにせよそのわずかな動きが、腕に巻いた金のブレスレットを煌めかせ、帽子に真珠のピンで差した水鳥の羽毛を繊細に揺らせている。彼女は不動の姿勢のまま、眼だけを動かしたわけではないのだ。
そう思うと、一見尊大で驕慢に感じられた両の瞳も、濃い睫毛の下で憂いと哀しみに潤んでいるように見えてくる。見つめれば見つめるほど表情は謎めいてくる。