本稿は、中野京子「美貌のひと 歴史に名を刻んだ顔」(PHP新書)の一部を再編集したものです。
不倫、嫉妬……ドラマティックな「女性」はなぜ美しいのか
並外れた美貌の持ち主には、ドラマティックな人生がまとわりついている――そう感じている人は多いかもしれない。つまり我々の心のどこかに、美貌それ自体が驚異であるからには、人生もまたそれに釣り合う非凡さであってほしいとの、奇妙な期待がある、一方で必ずしも現実がそうとは限らない。しかし絵画においてはドラマティックな人生を歩んだ、さまざまな「美貌のひと」が描かれている。その中から、2018年秋に“来日”する美女をひとりご紹介しよう。
ペテルブルクのネフスキー通りに無蓋馬車が停まっている。背筋をすっと伸ばして座る黒ずくめの女性と目があう。その瞬間、世界に存在するのは彼女ひとりとなり、背景は朝靄の中へみるみる消えてゆくかに思う……。
不倫の果てに駆け落ちした『アンナ・カレーニナ』のアンナ
この「忘れえぬ女」という名作に描かれている美女には、曰くがある。その内容は、冒頭の一節「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」(工藤精一郎訳)で知られる、文豪レフ・トルストイ(1828~1910)の名作『アンナ・カレーニナ』と実に興味深い関連がある。
『アンナ・カレーニナ』は十九世紀後半、帝政も末期に近づいたロシアを舞台にした物語だ。凜々しい青年士官ヴロンスキーは、駅で若い貴婦人を見かける。生き生きした何かが彼女の内部からあふれだし、眼の輝きや微笑に照り返して見えた。彼女の名はアンナ。
すでに夫と子供のいる人妻だった。
ヴロンスキーとアンナは激しく惹かれ合い、やがて結ばれる。アンナは夫に別れを切り出すが、年齢的にも精神的にも干からびたような夫は政府高官という体面上、形式的に妻を演じ続けるよう命じるばかりで、離婚に応じてはくれない。ヴロンスキーは絶望してピストル自殺を図るが一命をとりとめ、ついに若いふたりは駆け落ちする。
長いヨーロッパ旅行を終えて帰国すると、ペテルブルクの社交界は罪深い彼らの前にかたく扉を閉ざしていた。やむなくヴロンスキーの領地である田舎へ引きこもったものの、子供にも会えず、不安定な立場のアンナは次第に嫉妬深くなり、ヴロンスキーを悩ませ始める。
彼の外出が増え、また周囲から「まともな縁談」を勧められているのを知ったアンナは、心理的に追いつめられ、汽車へ飛び込み、短い生涯を終える。二カ月後、ヴロンスキーは自費で義勇軍を募り、セルビアの戦地(一八七七年勃発の露土戦争)へと、半ば死を覚悟して赴くのだった……。