「言葉そのものが音楽になっている。そんな小説を書きたいと思っていました」
作曲家であり、優れた音楽批評家でもあったシューマンが生まれてから今年で200年。その節目の年に書き下ろした本書で、奥泉光さんは「言葉によっていかに音楽を表現するか」を徹底的に追求した。
物語の舞台は30年前。ある高校で一人の女子高生が殺される。事件は未解決のままだったが、当時、音大を目指していた主人公は、シューマンに傾倒する同級生の天才ピアニスト・長嶺修人がその犯行現場にいたのを目撃していた。そして事件後、長嶺はピアニスト生命を断たれるほどの大怪我を指に負う――。
表向きはミステリーとして描かれる本書だが、「謎が小説を引っ張るのではなく、音楽が小説を推進していくこと」をテーマにしたと奥泉さんは話す。例えば象徴的な場面がある。主人公から君の弾くシューマンを聞きたいと言われた長嶺が、楽譜を指してこう答えるのだ。〈僕が弾くわけないさ。だって、弾く意味がない。音楽はここにもうある〉
「演奏されるかどうかに関係なく、音楽はすでに存在する。その長嶺の思想は一つのファンダメンタリズムです。では、その思想は人間をたえず不自由にするのか。必ずしもそうではない、と考えることもできる。完璧な音楽はすでにある。しかしそれでも完全なものに一歩でも近づこうと演奏するのが人間だからです。そして、どんな演奏をしても本物の音楽は傷つかないのだという確信が、演奏家を鼓舞する面もある」
物語は長嶺の思想を背景としながら、狂気に苛まれていくシューマンの生涯や音楽が幻想的なシーンとして表現され、事件の謎とも絡まり合う。読み進むに連れて呼び起こされるのは、物語の奥深くで本物の音楽が鳴り響いているような不思議な感覚だ。シューマンの音楽を、実際に聞きたくてたまらなくなる。
「悲しいから泣くのではなく、嬉しいから笑うのでもない。小説の究極の理想とは、今まで人々が見つけたことのなかった感情を発見することだと常に考えています」と奥泉さんは語る。
「音楽」を言葉によって真正面から描くこともまた、そのための一つの挑戦だったといえる。
「音楽を再現するのに音楽にかなうものはありません。その前提の上で言葉は何を生み出せるのかと必死に考え、自分の感じる音楽の魅力を書いていきました。それは僕にとって、音楽からインスパイアされた何か別のものを生み出そうとする試みだったのかもしれませんね」