歴代首相で外交がうまいのは誰だったか。作家の佐藤優氏は「森喜朗首相の外交がベストだった」という。森内閣は日ロ関係の前進や沖縄サミットの成功など多くの実績を残した。だが次の小泉内閣は「電撃訪朝」の結果、日朝関係を壊してしまった。この「平成史」からなにを学ぶべきなのか。佐藤氏と片山杜秀氏の対談をお届けしよう――。

※本稿は、佐藤優、片山杜秀『平成史』(小学館)の第3章「小泉劇場、熱狂の果てに 平成12年→17年」の一部を再編集したものです。

作家の佐藤優氏(左)と慶應義塾大学法学部教授の片山杜秀氏(右)

いまでも森元首相とプーチンには堅い信頼関係がある

【片山杜秀(慶應義塾大学法学部教授)】99年から00年に移る瞬間、コンピューターが誤作動を起こして大パニックに陥ると言われていました。世紀末に世界が滅亡するという終末思想と重ねて危機感を募らせる人が多かった。

【佐藤優(作家)】2000年問題ですね。霞が関でもミレニアムに何が起きるのかと緊張していました。

忘れられないのは99年12月31日です。昼過ぎにモスクワから電話があった。モスクワ時間正午(日本時間午後6時)にエリツィンが緊急演説をして、大統領辞任を表明するというのです。後任はプーチンだと読んで、すぐに鈴木宗男さんに連絡して、小渕恵三首相との会談の準備をはじめました。

【片山】まさに日露関係のターニングポイントですね。しかし翌年の4月に小渕総理が倒れて昏睡状態になった。外交の現場も混乱したのではないですか?

【佐藤】鈴木さんとプーチンの会談が実現したのが、大統領選後の4月4日。イスラエルのテルアビブで行われていた国際学会に出ていた私もモスクワに向かいました。しかしその2日前に小渕首相が倒れてしまった。特使派遣の中止もありえましたが、次期首相の森さんからの指示もあり、予定通りに行うことができた。外交官として仕事のピークの時期でした。

【片山】7月の沖縄サミットでは、プーチンが初来日しました。いまも森元首相とプーチンは堅い信頼関係で結ばれているといいますね。

【佐藤】実は、平壌経由で来日したプーチンはサミットに遅れて到着した。遅刻に怒ったフランスのシラクに対し、森さんが「彼は金正日の情報を我々に提供するために北朝鮮に寄ってきてくれたんだ」となだめた。プーチンは、助け船を出してくれた森さんに、いまもとても感謝しているのです。

「サメの脳みそ、ノミの心臓」というイメージだが……

【片山】一方で、森さんほど、マスコミに叩かれた人もいない。

【佐藤】流行語になった「IT」を「イット」と言って叩かれていましたね。もう一つが「神の国」発言。森さんは神道政治連盟の集まりで「日本は神の国だから」と語りました。神主たちを対象にした発言をそこまで叩く必要があったのか、マスコミは意地が悪いなと感じました。

【片山】いまならもっと過激な発言をしても許されるでしょうね。逆に拍手が起こるかも知れない。

【佐藤】森喜朗というとサメの脳みそ、ノミの心臓というイメージで語られますが、実際は非常に精緻な思考をする人で常に温厚、そしてとてもよく勉強している。会談でも条約文や事実関係の日付、統計上の数字、固有名詞のカードを作る。基本的にはアドリブですが、大事な部分はカードで確認するから絶対に間違えない。

実はプーチンもこのスタイルとまったく同じなんです。我々外交官にとっては、森さんのやり方がベストでした。事実、森内閣では様々な交渉が動いた。