安倍晋三首相は日朝首脳会談を再開できるだろうか。かつて小泉純一郎首相(当時)は2002年と04年の2度訪朝し、拉致被害者を連れ帰った。だが「北朝鮮に帰国させる」との約束を反故にしたため、その後、現在まで日朝会談は開かれていない。元外務省主任分析官・佐藤優氏は「小泉訪朝は失敗だった」と断言する。佐藤優氏と片山杜秀氏の対談をお届けしよう――。(第6回)

※本稿は、佐藤優、片山杜秀『平成史』(小学館)の第3章「小泉劇場、熱狂の果てに 平成12年→17年」の一部を再編集したものです。

2002年9月、首脳会談を終えて「日朝共同宣言」に署名し、握手する小泉純一郎首相(当時、左)と北朝鮮の金正日労働党総書記(写真=時事通信フォト、代表撮影)

田中眞紀子外相が金正男を帰国させなければ……

【片山杜秀(慶應義塾大学法学部教授)】小泉政権のスタート時は、田中眞紀子が外務大臣でした。ポスト・ポスト冷戦時代に突入して、国際外交がもっとも重要視されていた時期にもかかわらず1年足らずで更迭されましたね。

【佐藤優(作家)】政権発足時、外務省ではほとんどの人間が田中だけは勘弁してほしいと考えていました。でも徐々に省内で田中派が強くなっていった。やがて死ぬまでついていきますという連中まで出てきた。

【片山】(苦笑)。そんな人たちがいたんですね。

【佐藤】主流派から冷遇されていた人には、田中外相誕生は出世のチャンスだったんです。

【片山】田中眞紀子が外相だった01年5月に金正男と見られる男が成田空港で拘束されました。しかし慌てて帰国させてしまった。彼を日本で確保しておけば、日朝外交の切り札になったのではないですか。

【佐藤】おっしゃるとおりです。でも、田中眞紀子が「そんなの怖いからすぐに帰しちゃいなさい」と政治主導で帰還させてしまったんです。また9・11直後に田中は、アメリカ国防省がスミソニアン博物館に避難しているという機密をマスコミにしゃべってしまった。ここでやっと外務省内でも田中に対する危機感が露わになった。

【片山】すごい話ですね。

【佐藤】田中は人の説明をまったく聞かないし、感情的に動く。パソコンにたとえれば、容量が非常に小さくて、OSが違うからどんなにいいソフトをダウンロードしてみても、どう動作するかが分からない(苦笑)。

鈴木宗男の功績は、田中眞紀子と刺し違えたこと

【片山】それなのにあんな勝手なことを言っていたのですか。いま振り返っても恐ろしい。とはいえ、あの時期小泉首相と田中外務大臣を圧倒的多数の国民が支持した。いまや完全に過去の人ですが、田中眞紀子も首相候補の1人に数えられていました。

【佐藤】歯車が狂えば、田中首相誕生の可能性も確かにあった。そうなったらトランプとドゥテルテを足して3で割ったような騒動になっていたでしょうね。