伝記や評伝というのは、扱われた人物の生きた足跡を辿ることで、その人物の「かたち」を描きだすことが中心のテーマには違いないのだが、ある人物を描くには、その人物が生きた時代背景を再現し、状況の説明ができなければ、評伝としては片手落ちになる。さらに人物を語る際には、同時代を生きた複数の人物との交錯があると、興味が尽きない話になる。
本書は、1930年から44年まで、バイロイト音楽祭を仕切ったヴィニフレート・ワーグナー夫人の生涯を、浩瀚な資料に基づき、詳細に描いた評伝である。ナチスドイツという狂気の時代背景である。
ヴィニフレート夫人は、イギリスに生まれ、リヒャルト・ワーグナーの子息であるジークフリート・ワーグナーに嫁ぎ、いち早くヒトラー支援を明確にし、ヒトラーが権力を握った後は、その支援も得ながら、バイロイト音楽祭を復活させた強靭な精神をもった女性である。
ヒトラーが台頭する20年代に出会い、ワーグナーに耽溺するヒトラーを敬い、戦後に至るまで、ヒトラーとの親密な関係を否定しなかった人物である。ワイマール共和国の崩壊からナチスドイツの台頭と敗戦まで、ヴィニフレート夫人とヒトラーや第三帝国の中枢にあった要人とバイロイト音楽祭の関わりを詳述することによって、時代という背景が形となり、主人公であるヴィニフレート夫人の生涯が彫りの深い評伝となっている。
すでに、「ワーグナーとナチ」に関する書物は膨大な量が存在しているが、本書の面白さは、あくまで、ヴィニフレートという稀有な女性の生涯という視点から、揺れ動く時代、様々な人物が描かれていること。類書にはないドラマティックなディテールを重ねながら、具体的なイメージを喚起するものになっている。
ヒトラーは、ワーグナーの代表作である「ニーベルングの指輪」を100回以上も観ているという。ワーグナーへの狂信者であり、ワーグナーについては、専門家にも負けない造詣を持っていたことは間違いない。ワーグナーに対する信仰とも言えるヒトラーの愛着は、44年の夏、すでに、あらゆるドイツの都市が、爆撃にさらされ廃墟と化していたにもかかわらず、バイロイト音楽祭を強行したことにも表れている。狂気としか、言いようがない。戦後、ナチの行為を知るに至って、なお、ヒトラーへの敬愛を公言していたヴィニフレート夫人の生涯を、著者は、最後にこう総括している。
―彼女は犯罪者でもなく、天才的な誘惑者ヒトラーの手に落ちた、感じやすく騙されやすい多くの人間の一人だった。若かった彼女が、熱狂的ワグネリアン、ヒトラーに「ドイツの救済者」「バイロイトの救済者」を見出したことは、ヴァーンフリートの精神に適っていた―と。