どこまでも控えめで、患者とともに生きた

毎日社説は「害がむしばむのは自然と健康だけではない」と述べ、「差別と対立。家族、集落の絆も断たれ、生活や人生そのものが否定される」と指摘する。

そして「『苦海浄土』はそれを克明に、患者一人一人と向き合うようにして描き、全国の読者の心を動かした」と解説する。

最後に毎日社説はこうつづって筆を置いている。

「『苦海浄土』の中で老いた漁師が語る。『魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい』」
「天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける」

この毎日社説を読むと、私たちの幸せとは何だろう、と考えさせられる。

石牟礼さんは1968年に「水俣病対策市民会議」を結成するなど患者への支援活動にも深く関わり、どこまでも水俣病と戦った。『苦海浄土』は1970年の第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、石牟礼さんはその受賞を辞退した。どこまでも控えめで、患者とともに生きることを忘れなかった。

毎日社説の見出しは「問いつづけた真の豊かさ」だ。

虐げられた人の声を聞き、記録する

朝日社説(2月12日付)は「『近代』を問い続けて」と少々分かりにくい見出しを付けている。そう考えて書き出しを読むと、こうある。

「水俣病患者の声をすくいあげてきた作家が告発したのは、公害や環境の破壊にとどまらない。私たちの社会に深く横たわる『近代』の価値そのものだった」

朝日社説によれば、石牟礼さんは「公害や環境破壊」だけではなく、「近代の価値そのもの」を社会に訴えた、というのだ。どこか奥が深そうである。

「恵みの海とともにあった人々の質素だが穏やかな暮らしが、いかに奪われたか。成長を最優先し欲望をかきたてる政治、科学への信頼、繁栄に酔い、矛盾に目を向けぬ人々。それらが、何を破壊してしまったのか」

石牟礼さんは「虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた」のだ。

朝日社説も毎日社説と同じように「豊かさとは何か」「何が本当の幸福なのか」をただしている。

「希望」と「思いやり」の文学作品だ

朝日社説はこうも書く。

「現場に身をおくと同時に、石牟礼さんが大切にしたのは歴史的な視点だ。公害の原点ともいうべき足尾鉱毒事件を調べ、問題の根を探った」

そして「こうした射程の長い複眼的なまなざしが、さまざまな立場や意見が交錯し、一筋縄ではいかない水俣病問題の全体像を浮かびあがらせ、人間を直視する豊かな作品世界を作り上げた」と指摘する。

なるほど、いまさらながら石牟礼さんのスケールの大きさが分かった。

さらに朝日社説は「『水俣』後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない」と指摘し、「福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、『実験にさらされている、いま日本人は』と語った」と書く。

石牟礼さんの「実験にさらされている」という言葉にどこか恐ろしさを感じる。