今から17年前、「昔ながらの上海人の生活を体感する」などと鼻息荒くトイレのない昔ながらのアパートに住み、半年にわたっておまるの生活を経験し四苦八苦した私は、トイレのない生活がいかに不便かということは身をもって実感している。それでも、むき出しの便器を用意されるぐらいだったら、元々トイレがない部屋でおまるで用を足す方が、ずっと精神の安定を保てるように思う。

それでも230万円のセダンを購入

さて、シューが便器むき出しの部屋に住むことを余儀なくされているのは、共に物流倉庫で働く夫婦の世帯収入が8000元(13万5000円)と、家族3人であれば食うや食わずという生活までにはならないものの、上海のいわゆる大卒ホワイトカラー1人分相当と決して多くはない一家の収入を考えてのことであり、「自分たちは中学しか出ていないから子供は大学に進ませたい」(シュー)という子供の教育費などに回すため、と私は思い込んでいた。

山田泰司『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』(日経BP)

だから、シューの家を初めて訪れてから1年もたたない2016年の1月、「シューがクルマを買った」と友達のチョウシュンから聞かされたときには、彼の家を見たときよりもさらに、私は驚いたのである。便器むき出しの家に住む彼らのどこに、クルマを買う余裕があるのか、と。

シューが買ったのは上海GEが中国で製造しているビュイック・エクセル(中国名・別克英朗)。1.5リッターのコンパクトセダンで、価格は14万元(230万円)だ。上海は自動車の総量規制をしているためナンバープレートは競売制で、落札価格は直近で8万5000元(140万円)と、クルマ1台分程度にまで高騰している。ただ、地方出身者は総量規制のない故郷でナンバープレートを取得するケースも多く、シューも実家のある江蘇省で申請したためこの費用はかからなかったのだという。上海で暮らす地方出身者の数少ないメリットだといえる。

「道路に適当にとめておいても大丈夫」

上海ではこの年、シューと同じような境遇にある20代前半の夫婦たちがこぞってマイカーを買い始めていた。「シューと同じような境遇」とは、出身は地方の農村で、学歴は中卒か高卒、職を求めて上海にやってきて、家賃は安いが交通の不便な郊外に住み、仕事は単純労働の、世帯所得6000~1万元(9万8000~16万円)といった層のこと。上海の最低賃金は2016年に2190元(3万6000円)だったので、世帯収入6000元というのは、現在の上海では底辺に限りなく近い水準だといえる。

シューの友人で四川省の農村で中学を終え上海に出てきたウェイ夫妻も、24歳になる年の2016年1月、マイカーを買った。中国の自動車メーカー吉利のSUVで、購入代金の9万2000元(150万円)は、「親にも少し援助してもらって一括で払った」(ウェイ)という。シュー同様、ナンバープレートは高額な上海を避けて故郷の四川省で申請した。

月々にかかる費用は、「週末ぐらいしか乗らないので、ガソリン代の200元(3400円)程度」。駐車場は「この辺は上海でも農村だから、道路に適当にとめておいても大丈夫」なのだという。