※本稿は、山田泰司『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』(日経BP)の第3章「昼の町に立つ女たち」を再編集したものです。
中国には「路地裏」が存在しない
日本文学史に残るそうそうたる作家たちが書き残した日本以外の国の町、という点で、上海はほかの町を圧倒しているのではないだろうか。
ロンドンに船で留学に向かう途中に寄航した夏目漱石が、新聞社の視察員として訪れた芥川龍之介が、父の赴任先を訪れた当時十七歳の永井荷風が、杭州に駐留する火野葦平に芥川賞を授ける使命を帯びてやってきた小林秀雄が、愛人に傾く妻の気持ちを再び自分に向かせるために夫婦で旅立った金子光晴が、日記、エッセー、小説とスタイルはさまざまだが、当時の上海を記録している。金子光晴が、じっと何かを考え込んで一時間も動かない魯迅(ろじん)を見かけた横浜という名前の橋や、永井荷風が庭園の壮麗さに打たれた豫園(よえん)など、当時の面影を今も残す場所は少なくない。
これら作品の収録された文庫本や電子書籍の入ったスマホをガイドブック代わりに散歩するのに、上海は格好の町である。残念なことに最近は、PM2.5などの大気汚染がひどすぎない日ならば、という条件付きだが。
ただ、上海、そして中国の町歩きでもの足らないなと思うこともある。それは、裏通りや路地裏、横町を歩く楽しみがないことだ。中国には表通りしかなく、裏通りや路地裏が存在しないのである。
こう言うと、上海や北京を知っている人の中には、「何を寝ぼけたことを。裏通りや路地裏ならそこらじゅうにあるじゃないか」「北京の胡同(フートン)こそ裏通りではないのか」と指摘する向きもあろう。しかし、中国の都会にある道路は道幅が広いか狭いかの違いだけで、すべてが表通り。上海や北京にも裏通りや路地裏があるという人が頭の中に思い浮かべているのは、ただ道幅が狭いというだけで、表通りにすぎない。
壁の外に出なくても最低限の用が足せる
中国の町に路地裏や裏通りが存在しない理由は、住宅の構造にある。
中国は古来、囲う文化である。町全体を城壁で囲い、一族や共同体の住む複数の住居を壁で囲う。町を城壁で囲うことで外の世界と遮断し、住宅の四周を壁で囲むことで、一族以外の人間や、通りがかりの見知らぬ人物の侵入を防いできた。住宅の中に入るにはいったん、通りに面した門をくぐって囲いの中に入り、中庭などを通ってようやく自分の家の玄関にたどり着くというスタイルである。
町づくりや住居づくりにおけるこのような精神やスタイルは、現代に至るまで脈々と受け継がれてきた。こうした住宅群の中には数百戸、数千戸が入居する大規模なものもあるため、囲いの中に学校、スーパー、病院、銭湯、美容院、レストランなど生活に必要なものが揃っていて、壁の外に出なくても最低限の用が足せるようになっている所もある。
こうした居住区の中にある小さな路地が、壁で囲う文化のない都市における路地裏、裏通り、横丁に相当するものなのだろう。ただ、囲いの中の路地には、閉鎖された他人の空間に入っていくような居心地の悪さと、あくまで壁で守られた生活の空間という予定調和の空気が流れている。無防備に外界にさらされている場所に自然発生的に形成された路地や裏通り、横丁で感じる危うさやスリル、ドキドキ感やワクワク感が、囲いの中には欠如しているのだ。