1560~1619。幼名与六。23歳で山城守を称し、越後の戦国大名上杉景勝の執政となる。関ヶ原の戦で減封。米沢藩上杉氏の執政としても藩政確立の総指揮にあたった。朝鮮出征時、漢籍を収集。出版事業「直江版」をおこす。
戦乱から天下統一へ。時代の流れは変わりました。
兼続も、「いかに強くあるか」ではなくて、「いかに領国を治めていくか」を考えた。前回触れた「仁」、つまり「愛」こそが大切なんだと思い至るわけです。
関ヶ原の合戦の後、西軍だった上杉は潰されてもおかしくなかった。そこで兼続は政治的な交渉をして、4分の1の石高で米沢に減封させられます。
そんな情況でも、兼続はリストラをしなかった。なにより人間を大切にした。ついてくる者を全員受け入れ、上杉謙信が越後で成功させた経済政策に着手します。謙信は、謀略、裏切りが渦巻く戦国時代に、人との信義を大事にする「義」という思想を掲げて求心力を得ました。つまり、「経済と義の両立」で、上杉家は強固な組織づくりに成功します。
謙信の一番弟子だった兼続は同じことをしました。
後の米沢織りのもととなる青苧(あおそ:苧麻(からむし)から取った繊維)を生産し、さらに換金性の高い楮や漆、紅花を植えて殖産興業を図った。鯉の養殖などもやった。経済復興のために、考えられる限りのありとあらゆることをやったわけです。みんなでやっていこう、という政策です。しかも農民の中に入って、畑の土を舐めたりして苧麻を育てた。苧麻の畑づくりは難しく、失敗すれば5年間は育たないと言われています。兼続は越後時代のノウハウを生かして、率先して土にまみれました。そして30万だった石高を実収50万以上に引き上げた。家臣や領民に対して、極めて誠実でした。
そういうことを見ていくと、兼続の「愛」は、やはり「愛民説」だな、と思えてきます。
ところが、面白いことを言う人が現れた。あるシンポジウムで同席した茨城大学の磯田道史准教授が、「どちらの説も本当だ」と。それをずっと考えていると、あるときぱっと思いつきました。
和歌には掛詞(かけことば)がありますね。ある言葉に二重の意味を持たせる技巧ですが、兼続はずいぶんと漢詩に精通していたことを思い出したんです。
兼続は和歌と漢詩の入り交じった倭漢連句会に出席して、漢詩を読むほど文化人でした。ならば、「愛」は掛詞的な使われ方をしていたのではないか。
外の敵に対して戦うときは英知の限りを尽くし、時には詭道(敵を巧みに騙すこと)を用いて戦う。まさに「軍神説」です。
一方で、内側、領民に対しては仁愛の心で誠実に接する。畑の土を率先して舐めるわけです。どちらも「愛」ですね。
上杉家を存続させるために家康の参謀・本多正信の息子を養子に迎え入れるなど、兼続を鬼謀の策士ととらえた小説もありますが、それは彼の一面のみを見ているにすぎません。両方の「愛」に目を向けてこその兼続です。
一国の政治家に似ているかもしれません。騙し合いのような外交交渉でしたたかに成果を挙げながら、国民に対しては誠心誠意尽くす。それが真の政治家ではないでしょうか。
兼続を主役にした大河ドラマのことにも触れましょう。
脚本家とチーフプロデューサーに「自由にやってください」と言いました。大河ドラマは毎週見せ場をつくって盛り上げながら、それが1年続く大変な苦労があります。そこで原作者があれこれ口を出すと、さらに面倒なことになりますから。