円高の危機を救ったインターネットの登場

【弘兼】小林さんの経歴を見ると、大阪大学工学部卒業。理系から総合商社入社は少々珍しいのでは? どうして商社を選んだのでしょうか。

【小林】大学時代、机の上で数式と向き合っていて、「肌に合わないな、違うな」と感じていました。そんなとき、恩師から商社を勧められました。その教授は偶然にも伊藤忠の創業者、伊藤忠兵衛の家系の方でした。

【弘兼】ご縁ですね。そして72年に入社後、電子機器部に配属。エレクトロニクスや情報関連の素養を生かす仕事に就きました。80年代にはアメリカに赴任。当時は日本の電化製品が世界を席巻していた時代です。

【小林】ええ。アメリカ、欧州に対して日本のハードが強かった。ところが、1ドル230円強だったのが、88年には130円を切ってしまった。製品の値段を上げることはできない。コストカットするにも限界がありますよね。

【弘兼】そして、製造地をコストの安い国に変えていった。

【小林】今も一部の電機メーカーは日本から輸出するという形で上手くやっていると思います。しかし、多くの企業は厳しい。繊維をはじめ、歴史を繙けば、まず日本はアメリカやヨーロッパから製品を買っていた。次に日本で作ったものをアメリカやヨーロッパに持って行くようになった。そのうちに製造コストが厳しくなり、韓国、中国で作って輸出するようになり、さらに厳しくなるとベトナム、タイで作る。繊維で言えば今ではアフリカでも作っています。コストとのバランスを考えれば、製造地が変わっていくのは仕方がないことです。

【弘兼】自然と小林さんの仕事内容も変わっていきますよね。

【小林】80年代半ばから90年代前半までは、日本からの輸出という形で仕事ができましたが、ドルが一時(95年)、80円を切ったことがありました。もう堪忍してよ、と(笑)。

【弘兼】大ピンチです。どうされました?

【小林】丁度、その頃インターネットが普及しはじめた。サーバー、ネットワーク機器といった類の商品が日本で売れるようになった。今度はアメリカの製品やサービスを日本に持って行き、展開するというビジネスを手がけるようになりました。そのほか、アメリカでは投資も手がけた。

【弘兼】どのような投資ですか?

【小林】シリコンバレーで起業したITベンチャー企業への投資です。

【弘兼】シリコンバレーへ行って、そこにいる起業家たちと小林さんがコミュニケーションを取っていた?

【小林】そうです。今でも続けています。投資は国内外を問わず当時からずっと手がけている分野です。

【弘兼】ITベンチャーと言えば、成功すれば大きな利益になりますが、失敗の可能性も高いのでは?

【小林】ITベンチャーの投資は医療薬品などの分野と比較すると、成否の目処がつく期間が短く、投資額も少ない。満塁ホームランはあまりないのですが、内野安打は打ちやすい。我々にとってはやりやすいビジネスでした。

【弘兼】とはいえ、どの企業が伸びるのかという見極めが大切です。

【小林】おっしゃる通り。我々はよく「目利き」と表現をしますが、目利きができる組織であるか、あるいは目利きができる人材を抱えているかが成功確率を上げるポイントです。

【弘兼】小林さんの目利きが上手くいった例をいくつか教えてください。

【小林】たとえば国内の案件ですが99年に投資先のCTC(現・伊藤忠テクノソリューションズ)が上場を果たしたときでしょうか。当時、時価総額が伊藤忠の株価の倍になりました。同年IIJ(インターネットイニシアティブ)が上場したときも、それこそ何百倍にまで時価総額が膨れ上がりました。当時はそういうケースが本当にたくさんありました。そこから2001年頃にITバブルが弾けるのですが。

【弘兼】そうでした。

【小林】でも、今はまたIT分野が盛り上がってきています。AIとかIoTの進化が目覚ましいので、チャンスだと思います。

【弘兼】目利きには小林さんが理系出身ということも助けになっていた?

【小林】いえ、私がというより、目利きができる組織と人材を背後に抱えていたということです。アメリカには数十社の協力企業がありましたし、日本でもすでにグループでは5000人ほどのITビジネス部隊がいて、IT技術を使って日本企業にどのような提案ができるだろうという発想で考えてくれた。