根拠の怪しい情報のコピペだけで記事を濫造する「まとめサイト」。記事盗用でDeNAの「WELQ」などは閉鎖に追い込まれたが、いまだにネットには倫理を欠いた記事があふれている。これが待ち望まれた「キュレーションの時代」なのだろうか。日本のインターネット言説に詳しい2人が、その「歴史」を解き明かす――。

※以下は、ばるぼら、さやわか『僕たちのインターネット史』(亜紀書房)からの抜粋です。

ニコニコ動画にイデオロギーはあるか

【ばるぼら】大山卓也さんの『ナタリーってこうなってたのか』(双葉社)という本は、タイトルからは一見して「ナタリーの経営はどうなっているのか」という経済書に見えるけれど、実際はネットメディア論として書かれていますよね。

【さやわか】この本の中で僕が面白く感じたのは「ナタリーは批評しない」っていうところです。批評とは一種の価値判断です。つまり、ナタリーは価値判断には踏み込まずに、あくまでもニュースとしてフラットに情報を流すんだと言ってみせるんですよね。

ばるぼら、さやわか『僕たちのインターネット史』(亜紀書房)

実は、このあいだ川上量生さんに会った時も同じようなことを言っていて、「ニコニコ動画はあくまでプラットフォームなので、その中のコンテンツがよいかどうかという価値判断はしないんだ」と語っていました。いまは削除されましたけど、ニコニコ動画の公式動画になぜ人種差別を助長するような団体のチャンネルがあるのか、という批判に応えての発言です。

そこからわかるのは、日本のインターネットのプラットフォームには、80年代編と90年代編で話題になったようなカリフォルニアン・イデオロギーのような思想が介在していないということです。ニコ動のシステムは無料閲覧と有料プレミアムの組み合わせで、それこそフリーミアム的な手法を取っていますけれど、本来、「フリー」とか「シェア」という言葉の中にもある種の価値判断やイデオロギーが含まれていたわけじゃないですか。少なくともレッシグの『FREE CULTURE』(邦訳・翔泳社)にはそういう含意がある。ところがニコ動的なフリーというのは、商業的なインターネットにおける自由さみたいなものです。これは人種差別うんぬんの例からもわかるように、下手したら暴走しがちな危ないものだと思うんですけど、いまはそれがインターネットの公正さだと思われてしまっています。NHK出版がクリス・アンダーソンの『フリー』やレイチェル・ボッツマンの『シェア』の翻訳を同じカバーデザインで相次いで出しましたが、あれらの本も、非常に商業主義的なイメージだけを強調して売っている。

【ばるぼら】どんな言説でも流すのが言論の自由であり、市場の自由なんだってことですよね。海外だと音楽ニュースサイトの「Pitchfork」なんかは取り上げるアルバムに対して星を必ず付ける、つまり価値判断を思いっきりしている。むしろ肯定否定に拘わらず価値判断を積極的にするというのが海外のネットジャーナリズムの基本姿勢だと思います。日本とはだいぶ落差があります。こういうフラット感は日本特有の現象なんじゃないかなという気がしています。

【さやわか】どうも日本では、「とりあえずすべてのものがあるのがいいんだ、ポストモダンなんだ」という風になったら、何がよいかという価値判断はしなくていいんだという誤解に落ち着きがちなんですよね。価値が相対化したにも拘わらず、何を選択するかが問われているから混迷しているのに。