【「右手に現場力、左手にロジック」
沖縄で狙う新規上場:検証ルポ30代】
■日々脳ミソを洗濯される「論理性」の世界
「好きな文具に囲まれて仕事ができるなら幸せだと思って決めました」――1991年、事務用品最大手のコクヨに入社した田島あゆみさん(38歳)。しかし16年経った今、名刺には「株式会社碧(へき)経営企画室」とある。同社は沖縄県那覇市で女性スタッフのみのステーキレストランや沖縄地鶏の店を経営する。自身5つ目となるこの職場で、田島さんはIPO(株式公開)の準備を進める中心的存在。県内ではまだ数少ない上場企業を目指している。
田島さんの職歴を順に辿ってみよう。
コクヨでは東京でオフィス家具の法人営業を担当。「スーツケースみたいな黒い営業カバンを持ち歩き、手にマメができた」。ヘルメット姿で工事現場に出入りし、顧客のキャビネットを誤って廃棄して怒られ、泣いたことも。
「自分は人見知りするタイプだと思っていた。でも、他人にそう思われたくなくて。そのうち平気になってきた」
3年働いて専業主婦に、という予定通り、会社を辞める段取りを進めた。予定は途中で白紙となったが、そのまま退社して大分県の実家に。「家事手伝いでいいやと思っていた」。しばし国内外を旅行していたが、じっとしていられなくなりバドワイザー・ジャパン(当時)の募集に応募した。「面接で折衝力、コミュニケーション力をアピールした」結果、約1000人中数人の合格枠に入った。大阪でコンビニ・スーパーを担当、2年目には九州を含む西日本のエリアマネジャーに昇進した。
99年末、会社が清算され“消滅”。「寂しかった」が、振り返れば足掛け8年の営業経験と、セールスマーケティングのスキルがあった。外資系コンサルティングのプライスウォーターハウスクーパース(現IBCS)に入ったのは、そこのアピールがすべてだった。
しかしそこは、現場で頑張ってきた過去とは真逆の「日々脳ミソを洗濯されるような、ロジカリティ(論理性)の世界」。「あまりのスピードに何をしているかわからない状態」だった田島さんは、いきなり大手通信会社の営業戦略プロジェクトに抜擢された。これが「社会人になって最も“濃い”期間。4年間働く原点となった」と言う。
上司のプロジェクトマネジャーに言われたのは、「メーカー出身者の強みは何だ? 営業を実際にやっていることだ。それを顧客に論理的に手渡してあげるのが仕事だ。経験は学習では補えない」。生え抜き社員にはない、自らの存在意義に目を開かされた。
さらにプロジェクト終了後、上司は「器用貧乏になるな」と一言。これが自分の専門領域をどこに置くか、この先どうするかを考える契機となった。様々なプロジェクトに参加するうち、「もっと高い視点でものを見たい。コンサルではなく、事業に直接携わりたい」と考えるようになった。
転機は2003年秋、休暇で石垣島を訪れたときだった。「こんな場所に住みたい」と衝撃を受け、半年後には沖縄のコンサルティング会社へ移っていた。現地の「人と会社の強いネットワーク」にとけ込み、05年3月、知り合いを通じて「碧」に移った。「経営の根幹にすべて関わるIPOに携われることになった。新たな自分の専門領域にしたい」。その一環である社員教育にも注力する。「収入は減りましたが(笑)、以前より充実感がありますね。携わる分野が物凄く広くて深いんです。上場はゴールじゃない。勉強して、一つ一つステップを踏んでいきたい」。