認知バイアスの修正が難しい理由

カナダの哲学者ジョセフ・ヒースは、『啓蒙思想2.0』(NTT出版)のなかで、この手の認知バイアスにどっぷりハマってしまうと、「否定的要素」を考えられなくなると指摘している。

<人は仮説を考えるとき、仮説と整合性のとれる肯定的証拠ばかりを探しがちになる一方で、仮説と整合性のとれない証拠がないことは確認し損なう。「否定的要素を考える」ことをしないのだ>

ひとたび誰かを嫌いになると、その人間の悪い面ばかりを探そうとして、好ましい言動は無視する。場合によっては、好ましい言動すら「悪者」の材料として解釈するだろう。慈善活動を偽善呼ばわりするように。

ヒースは、認知バイアスに陥っているかどうかを自分自身で診断するのは、非常に難しいという。なぜか。彼はそれを「進化的コスト」の低さという点から説明している。

<捕食獣に食べられる危険のある環境では、草のそよぎも潜在的な脅威と見なすに如くはない。「びくついて」何もないのに逃げ出すことのコストは、明らかな兆しを無視して体を食いちぎられるコストより、はるかに安上がりだ。だから私たちはパターンを見つけると興奮してしまう。もしも「自分は間違っていたら?」と考えるのは、自然に起こる発想ではない。理性によって認知に課される抑制である>

直感的なパターン認識は、動物が身を守り、生き残るのに有用だった。その末裔である私たちに、パターン頼みの行動が染み付いてしまっているのも無理はない。だからこそ、パターン認識がもたらす認知バイアスの自己点検や自己修正は難しい。理性はゆっくりとしか働かないし、直感に比べてはるかにコストがかかるため、「自分は間違っているのでは?」とチェックする労をケチってしまうのだ。

「無知の無知」の厄介さは、ここにある。知らないことを知らない状態とは、認知バイアスそのものだ。とすると、どれだけ謙虚を心がけようが、自戒しようが、私たちは生物的な「無知の無知」から完全に免れることはできない。それはほとんど宿命のようなものだろう。

でも、宿命だからといって、諦めてすませられる問題ではない。iPodのシャッフル機能から神秘的な力を感じ取るぐらいならかわいいバイアスだが、「○○のせいで、俺たちの富が奪われている」「○○が世界を操っている」と集団的に思い込むなら、ナチスやカルトまであと一歩だ。そして恐ろしいことに、両者の違いは「程度の差」でしかない。

じゃあ認知バイアスの危険な誘導を抑制するには、どんな手があるだろうか。次回からはいくつかの有力な対策案を検討してみることにしよう。

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