「初の生え抜き」は「報道」の力に期待

70年代後半から80年代初めにかけて、3つの「戒厳令下の取材」を経験した。ダッカ日航機ハイジャック事件、韓国の朴大統領暗殺、そして独立自主管理労組「連帯」を核としたポーランドの民主化運動。日本と世界のつながりや世界を変える潮流を肌で感じ取り、日本の人々に伝える。身の危険もあり、大変な取材だったが、大きな達成感がある。「報道」の志を磨いた時期だ。

40代を迎える直前に、報道番組「TVスクープ」(金曜夜11時)のプロデューサーとなる。自分で選んだニュースをもとに、自在につくり上げる。85年8月12日夕、群馬県・御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機が墜落した。乗員・乗客のうち4人が奇跡的に助かったが、520人が亡くなる。旧盆休みの週に、夕方の東京から大阪への便。スタッフに「これは、日常的な時間と空間の中で起きた惨劇だ。520人が、どこかへ行き、どう過ごした後、大阪へ行ってどうしようとしていたのか、それを追跡しよう」と指示した。

「早河洋、41歳。会社の一斉夏休みに、家族で東京ディズニーランドへ行った帰りだった」という具合に、一人一人について原稿を書く。深夜の放送で地味な内容だったが、視聴率は10%くらいになった。でも、その数字よりも、制作陣がつくりながら泣いていたことに、衝撃を受けた。41歳。「生の素材ほど訴えるものはない」と、「報道」の力を改めて確信する。

この3月11日午後、東日本大震災が起きた。すぐに、特別番組に切り替える。民放各局のなかで、最も長く特別番組を続けた。無論、公共的な広告以外、CMを外す。95年1月に起きた阪神・淡路大震災のときは、報道局次長として前線で指揮した。今回は、社長室だった。

インターネットの脅威が言われて久しいが、大震災でネット系のニュースサイトは基本的に大新聞やテレビの情報を引用するだけだった。民放テレビをみた人、とりわけ携帯電話のワンセグ放送の視聴者数が、すごく多かった。発生後の3日間でみると、NHKが25%、民放の合計が65%の比率。いざというとき、やはりマス媒体への信頼は大きい。まだまだ、やりようはある。

大震災の発生は、新しい経営計画をスタートさせる直前。影響がどこまで広がるかが見通せず、しばらく計画のままで進む。予断は許さないが、みんな、悲観もしていない。開局以来、歴代社長は大株主の朝日新聞などから来ており、「初の生え抜き社長」と言われる。社員が「トップが現場のことをよくわかってくれるのは、ありがたい」と言ってくれるし、外部のシナリオ作家らが「社内が元気になったね」と言ってくれる。そういう体感はないが、元気の源になっているのなら、うれしい。

アナログの地上波の時代には、番組制作でいろいろアイデアが浮かんだが、デジタルでインターネットも意識する時代になり、自分がITを駆使した企画をつくるのは無理だ。番組をつくり、自らのネットワークで放送するだけではなく、よそにも売る。それを支えていくために、技術者やIT事業の経験者らも揃えたい。新卒の採用や中途採用では、そこを加速する。もちろん、いまいる人たちにも、自ら手を挙げて経験したいと言うなら、新しい技術や知識を身につける機会を与えたい。

すべて、視る人の選択肢と満足度を充実するためだ。社長業も、ある種のプロデューサー。責務は変わっても、役割には似た点がある。そう思えば、楽な気持ちで挑戦できる。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)